バックテーマ『ヘッドライト・テールライト(http://www.uta-net.com/phplib/maphp002.php3?sentaku2=12526&;)』

中学3年間ずっと白組だった。そしてずっと応援団だった。ニッシーにとって白組というのは当時はリベンジにかけていた貴重な組だった。

100メートル走で、入賞を逃した。
親子2人3脚では見事2位に入った中学1年。

中学2年から応援団そして白組勝利に力を入れた。
どの競技も順調に進んでいた。
白組がリードしていた。
最後の紅白リレー、この時点で白は大量リード。
赤組が1位、2位を独占しなければ白組の勝利は確定する。
誰もが勝利を確信した。
ゴールしたとき、白は1位だった。
やった!優勝だ。誰もがそう思った。しかし・・・審判長が言った。
「白はバトン渡しのときにオーバーゾーンがありましたので、失格とします。」
みんな呆然と立ち尽くした。
声が出なかった。
もうすぐで手に届いた勝利だった。しかし、つかみ損ねた。皆うなだれた。

中学3年。ニッシーはまた白組だった。去年のリベンジを果たす。果たしてみせる。意気込んでいた。

しかし、結果は散々。赤が大量リードだった。
そして、騎馬戦がやってきた。
ここで、白が勝たないと赤の勝ちが決まってしまう。
皆真剣だった。
この騎馬戦は大将騎戦。大将が倒れた時点で勝負は決する。
試合は1回勝負。
試合前大将を囲んで作戦を練った。
試合が始まった。
絶対に負けられない。
大将を守らなければ。
皆大将の周りを取り囲んだ。
そして、思いが通じた。赤の大将が倒れた。
白が勝った。
その瞬間、ニッシーは泣いた。嬉しかった。
首の皮1枚残った。
結果は散々だった。しかし、良い思い出になった。


あれから、6年。いまだにこの時期になると当時の体育祭のことを思い出す。ニッシーの中での白組への思いはまだ続いている。

【注】この話はニッシーの実体験を元にしてかかれたものです。

久しぶりに作ってみたテールライト体育祭編。いかがだったかな?(笑)

かけひき

2002年8月13日
先日もうずっと前になるが、高校野球茨城大会決勝戦を見に水戸市民球場まで行ってきた。水戸商業−常総学院と言う高カードの決勝戦。ニッシーも内心わくわくしていた。

試合が動いたのは序盤だった。水戸商業が3回までに一挙6点を取り、6−1と常総学院に対して大量リードを奪う。水戸商業の投手のきれもよく、バックもファインプレーを連発。5回まで6―1で進む。このまま水戸商業が優勝してしまうのか?一瞬そのようなことがニッシーの頭の中をよぎった。

しかし、ここから常総学院の反撃が始まった。6回に長打・短打を重ね、一挙に4点を取り6―5に。それでもまだ、1点差で水戸商業のリード。しかも、あわや常総の逆転か!と言ったところに、水戸商業のファインプレーも出て、流れはまだ水戸商業にもあるとニッシーは1点差になってもそう思った。

しかし、7回。先頭バッタ−が出塁すると、ここぞ勝負とばかりに。常総ナインの集中力が光る。選手達もそれを分かっていた。安打などで満塁となり、ここぞとばかりの何と満塁ホームラン。一挙に4点を取り試合を決めた。にっしーこんな鳥肌の立つような試合を見たのは久しぶりで、最後は興奮している自分がそこにいた。

この試合は、まさに常総学院のかけひきが見事に的中した!そんな試合だったように思う。人間は様々な機会で様々なかけひきをする場面に出会う。ここが勝負と思ったとき、力説をして相手を説得させる。論述式の試験で、自分の勉強したところが出題されそれが高配点だった時、ここぞ勝負とばかりにあらゆる力を発揮する。かけひきをする場面は人によってまちまちだが、少なくとも結構日常生活の中で経験はあると思う。

試験や野球のようにかけひきをする相手が人以外のものだったら、自分が今までやってきた事、自分が今まで学んだ事等を十二分に発揮できるかどうか。今までやってきたことをそこで使えるか、使えないか。と言ったようなある意味比較的単純なプログラムで住む場合が多い。

問題なのは、かけひきをする相手が人のときであろう。自分がいくらここが勝負だ!と思い、かけひきをしてもそれは相手あってのこと。自分の思っていることと他人の思っていることが歩み寄る、意志疎通をなさなければいくらかけひきをしても、結局は無意味なものに終わってしまう。この場合のプログラムは複雑になる。

代表的なものとして人との駆け引きに恋愛が上げられる。恋愛とは2人の意志疎通があって初めてなされるもの。自分が、いくらこの人が好きだと思っていても相手がそのように思っていなかったら意味がないわけで、かけひきをするタイミングも難しくなってくる。どのタイミングで相手を振り向かせるか?どういう状態で?その時の相手の気分は?相手の予定は?相手は自分の事をどう思っているのか?かなりかけひきのプログラムが複雑になってくる。これがあるから恋愛は面白いと言う人も中にはいるみたいだが、でもやっぱりなんかすごいかけひきになっている。

かけひきの上手い人。それは、全てを自分の思い通りに動かせる人。かけひきの下手な人。簡単に言ってしまえば苦労人。閉ざされた暗い闇に包まれ、前が見えない。でも、可能性は0ではない。少しずつではあるが、至福の光も差し込んできている。それはまだ目には見えていないかもしれないけど、いつか見える日が来る。そう信じて頑張っていこうではないか。とかふと思うときもたまにある。

季節ネタ

2002年8月7日
暑い日が続いていますが、人間というのは勝手な生き物で今の時期は少なくとも「冬の方が良い」と言う人が何人かいらっしゃることでしょう。ところが、これで冬になったらどうだろうか?絶対に
「夏が良い」とか言い出す人がいるはずだ!

俗に言う、『喉元過ぎれば暑さを忘れる』やっぱ、春と秋だよね。ここならそんなに暑い・寒いって言う人はいないだろうし。

それじゃ〜春と秋はどっちが良いのだろう?ニッシーは・・・ニッシーは・・・ニッシーは・・・どっちだ?どっちでもいいんじゃん。あぁ〜、ニッシーも勝手な生き物だ!

でも、今の時点だったら秋かな?秋よ来い。秋よ来い。アキこい。アキ。

明日から立秋です。一応暦の上では秋。やっぱ春がいいかも・・・いや、今の時点では秋。秋が来ればなにかあるかも?

経験が生むもの

2002年7月25日
何か色々と書いてきたけど、こうやって考えてきて感じることがある。自分は、ここに色々と書けるくらいあそこであの場所で様々な経験をしたと。それが誇れる話かどうかはわからないけど、自分の中ではそれは事実。様々な経験をしました。だから、前の日記にも書いたけど本当はもう1年やりたいんです。でも、そうはなれないのです。

さて、話が変わりますがこの間、成績通知書が代わったということが理学部の掲示板に出ていました。ニッシーこの掲示を見て瞬時に、「あれ?」と疑問を抱きました。成績通知書の受け取り先が各学科の教務員の先生の研究室なのです。しかも、締め切り間での日時は約10日間。「は?なにをやっているんだ、学務は!」見た瞬間おもいっきりそう思いました。

【おかしい点】
?成績通知書の受け取り先が、各学科の教務委員の先生の研究室というところ。
※研究室に先生は、常時いるとは限らず、先生によっては、研究室に滞在している頻度が低い先生もいる。よって、成績通知書をもらいたくてももらえない学生が多々現れるのではないかと容易に想像がつく。

?成績通知書に間違いがあった場合は、学務係に申し出るのだがその期間の締め切りが、7月31日までという点。
※?の理由から、確実性が欠けるにもかかわらず、学務は強硬に7月31日までを締切日にしている。理学部の学務はしかも締め切りに対して厳しい。(提出期限が遅れたら反省文を書かされる。)なのに、告示から締め切りまで約10日しかないという期間の短さ。?から、もらえない学生も多々いると思われるので、締め切りがおくれても、100%学生の非となるわけにはいかない。

?教務の先生にも情報が伝わっていなかった。
※ニッシーこの掲示を見て、すぐに教務の先生のところに成績通知書をくださいと申し出たのだが、教務の先生は「は?なにそれ?」みたいな感じで、学務と連絡がまったく取れていない。こんな状態で学務が一方的に学生に向けて掲示を出すこと自体やり方がおかしい。

以上の3点の矛盾がニッシーの中では発覚!数理科学科のインテリな教務員の先生と2人で学務に以上の3点について抗議してきました。学務は何か、よくわかんね〜相変わらずむかついた対応でした。しかたね〜んだよ。みたいな感じで。

こういうことをするんだったら、明らかに学務の入り口のところに成績通知書をおいておくのが早いし、確実です。しかも、締め切りを過ぎた場合も「それは学生が掲示を見なかったのが悪い」といささか、もんだいがあったにせよ、学生が悪いという言い訳もできます。っていうか、絶対に締め切りに厳しい学務だったらこっちの対応のほうが良いと思うのですが…

そんなこんなを、ニッシーと教務員の先生で約15分学務に抗議してきました。これも、ああいう経験をしていなかったら、気づかなかっただろうし、抗議なんていかなかったでしょう。

と、まぁ〜結構日常生活の中では良い経験にはなっています。色々と書いてきたけど、結構生かされる場面もありますね。^^と、まぁ〜良くないところばっかりでもなかったと。(初めからよくないとは言っていませんが。スイマセン)と言うことでした。

立場について?

2002年7月22日
テールライトの別バージョンを書こうとしたのですが、只今資料として使わせていただいている『UTA-NET』がサーバーメンテナンス中(7月24日まで)のため、普通のエッセイを書くことに。もしよろしければ読んでください。

※結構内容は過激かもしれないですが、決して攻撃とかそういう意味ではないので誤解なさらないでください。自分の思ったことを書いています。

先日、久しぶりにサークル主催の会議に行ってきました。と言っても、ニッシーはただ報告と言うか、そういうのをするだけだったので、すでに業務上に処理できる立場ではないと言うこともあり、誠に申し訳ないとは思ったのですが、私的の所用から、会議開始時刻から40分くらい遅れて行って、さりげなく帰ってくる予定でした。ところが、会議はまだ始まっていませんでした。どうも、結構色々あったらしくまだ始まっていなかったとのことです。まぁ〜今回のみだけと思いますが、最近は結構時間に関しては徹底されているみたいで、内部からの指摘もあり、皆納得していました。

ニッシーが1年のとき、今よりもっと時間にはルーズでした。時間厳守のニッシーにとって、これはすごく耐えがたいことでした。2年生なって、このことを皆の前で言ったことがあります。そしたら、ニッシーはこう言われました。「うちらも無理言って集まってもらってるんだからそんなこと言うなよ。」「みんな色々と事情があるんだからしょうがないんじゃない?」あたかも、遅刻することを正当化しだしたのです。締切りに関してもそんな感じでした。

ところが、今は時間厳守締切り厳守の風潮になってきており、徹底されていないときちんと皆で指摘しあうというようになってきています。どういう経緯でこういう流れに成ってきたのかは、計り知れますが、どうなのでしょう?権力のあるお方が、このことに関して言ったことがあります。それで、皆自分のやってきたことを反省したらしくそれで次第に変わっていった。というところでしょうか?まぁ〜真実はどうなのかはわかりませんが、どういう状態であったセよ、ニッシーが思うのはなぜ、ニッシーが言ったときには変わらなくて今になってこういう風潮になっているのか?すごい疑問です。つまり、ニッシーが言ってもダメなんですか?ってことですよね。今回は時間に関してのみ書きましたが、そういうのは、他の面でも結構見受けられました。ニッシーの中では。自分が指摘してもダメで、他の人が指摘するとみんなそれに従うと言ったようなことが。もちろん全てではありませんし、みんながみんなそうではないと言うことは分かっていますが、一部ではそういうことがあったと思います。

話は変わりますが、先日戸川京子が亡くなりました。お姉さんの戸川純が葬儀で言ってました。「あの子はみんなが持ってるイメージ通りの明るい子でした。でも頑張りすぎてポキンと折れてしまったんじゃないか」。戸川京子の心の葛藤はニッシーはわかりませんが、頑張りすぎてポキンと折れる、という表現がショックでした。

いろいろ刺激が多い現代だからこそ、その流れに馴染めない人やこぼれてしまう人もたくさんいると思います。でも何より一番大切なのは自分自身に嘘をつかないことだと思う。自分の感情を自分で裏切らないことではないか、と思いました。自分に嘘をついて行動しても、そのしっぺ返しは必ず自分にくる。頑張り過ぎて笑顔を繕ってもいつか壊れてしまうのではないかと今回の戸川純のコメントで感じたことです。

そしてもう一つ大切なのは、そういういろんな人たちのことを否定しようとせず理解しようとする姿勢や気持ちではないかと思いました。別にニッシーの意見が否定されていたとはならないとは思わないのですが、結果的にそうなってしまったのかな〜?とか色々と考えまいました。最近の様子を見て。

自分は世渡りも下手だし、うまく気持ちを表現することが出来ません。口も上手くないし。でも、自分自信には嘘はつかないできちんとやってきたつもりです。だから、その部分で負けてしまったのかな?どうなんでしょうか?今後どうすれば良いのか?ちょっと悩んでいます。ニッシーという一個人として。これからの接し方として、そして今後のニッシーの将来における人との接し方・付き合い方において。こぼれちゃう人になってしまうのかな〜?と。本当の自分を模索中です。
バックテーマ『ヘッドライト・テールライト』(http://www.uta-net.com/phplib/maphp002.php3?sentaku2=12526&;)

 中学時代体育館裏に好きな子を呼び出して自分の思いを告白した青年がいる。

 好きな人に告白したけど実はその子には別の好きな人がいてそのことを告げられたときに落胆する人がいる。

 1人の人を2人以上の人が好きになってしまい、片方だけが幸運をもぎ取り、もう片方がショックを受けてしまった人がいる。

 好きな人のことが気になって、明朝その人の家の前までいったら何と、計ったかのようにその人が出てきてくれた人がいる。

 失恋してしまい、もうだめだと思っていた。しかし、今の好きな人が現れすごい理解してくれて、この人で本当によかったと思う人がいる。

 恋人にはなれなくても、その後もずっといい友達という友達としての付き合いをする人がいる。

 病気になったとき必死に好きな人の看病をして、何とか病を乗り切った夫婦がいる。

 夢見る佳き日を追い求め、それを実現し、結婚式を迎えた新婚夫婦がいる。

 恙なく人生を送り、一時をすごしている老夫婦がいる。

 ずっとずっと一緒にいたけど、双方のすれ違いから分かれてしまったカップル・夫婦がいる。

 嬉し、恥ずかしい。思わず照れてしまう熟年カップルがいる。

 今まで恋人なんてできたことはなかったけど、ついに念願の思いがかなって幸せなときを迎えている人がいる。


人の数だけ出会いがある。出会いの数だけ思いがある。テールライト恋愛・カップル編。

近々、愛情編・家族の絆編・子供編・青春編を掲載予定。その他にも色々と1つのテーマに関するものをここで乗っけていこうかな〜?と検討中です。お楽しみに。

【参考資料】
○明治生命ホームページ(http://www.shiawasenatoki.com/
○歌ネット
http://www.uta-net.com
『好きな人は気になる人ではない』これは成り立つと思う。だって、その人のこと好きなんだもん。もはや、気になる人の領域を越えている。じゃ〜この待遇をとってみよう。つまり、

『気になる人は好きな人ではない』これは成り立つだろうか?ちょっと背理法で証明してみる。

【証明】
気になる人は好きな人とする。まだ、片思いの人にとってはこれは成り立つ。?????????まてよ?これじゃ〜証明は成り立たないな。つまり、この証明は成り立たないのか?

いや、ニッシー的には成り立つと思うのだが・・・そもそも待遇というのは『真』であるから。成り立つといえば成り立つのだろうけど。と言うと、命題じたいが成り立たないとか?ま、成り立つでしょう!多分。

なぜ、こんなことを書くのかと言うとニッシー自身がそうだから?気になる人はいます。でも、その人を好きな人というまでには至っていません。理由。

?彼女の理想が高そう。
??の理由よりだめそう。
?過去に何度も失敗しているのでその恐れ。

でも、メールはします。ただし、あまり話しません。ていうか、なかなか会いません。授業もかぶらないし、っていうか、その人を気にしていると言うのはニッシーしか知りません。他の人は知りません。なのに、あえて書いています。ま、まだ好きな人になっていないから書いてもいいかなと。

次は本当に慎重にやりたいと思っています。過去の失敗はもう繰り返したくない。失敗をこんなに重ねたくない。だから、まだ気になる人で。好きな人になるのは本当に確証を得てから。絶対に焦らない。とか言っているうちに、多分大学卒業とかになっちゃいそう・・・

あっても挨拶だけで、なかなか話しかけられない。もう失敗を何度もしてるから。もう、それがトラウマになってしまって怖いのです。でも、ちょっとだけこの間いい事をしてしまった。

その日は雨だった・・・。ニッシーは普通の雨の中自転車をこいでいた。この続きは、ま〜酔ったニッシーを問い詰めてください。(笑)

とにかくこの日は、ちょっと嬉しかったのよ。こういうこともあるんだな〜って。でも、まだ気になる人。絶対に焦らない。好きな人ではないんだから。
タイトルにも書いた。『孤独を愛せよ!』でも、孤独は大変。孤独の道は、どんどん補強されていく。新しい道の着工工事のめどはまだたっていない。そう、『恋愛』と言う新しい道は。まだ、めどはたたない。民営化になるかもしれんしね。(笑)

自己満足

2002年7月10日
自己満足でいいのか?最近思ってきたきたことの1つである。

例えば、ニッシーは現在野球の審判をやっている。今年で5年目かな?結構やっています。はじめは、もちろん自己満足でした。自分でやってて楽しいし、楽しければそれでいいと思っていた。

しかし、最近はなんか考えが変わった。さすがに5年もやっていると色々なものが見えてくるわけで、審判の名誉と権威を守るにはどうしたらいいか?野球の審判というのはルール上では、審判の判定には異議を唱えることは許されないと厚く保護されている。なので、本来ならば審判というのはコーチや監督よりも上の立場の人間でなのだ。

しかし、実際は違う。何試合も試合を経験してきて実際に試合をつかさどっているのは監督、コーチであり、審判はただの記録係に過ぎない。このように感じてきた。なので、審判に対するクレームというのも日常茶飯事に行われているのが実情だ。日本の文化といえば文化なのだろう。しかし、それには限度がある。審判にクレームばっかりをつけていたら試合は成り立たないし、時間がかかってしまう。

審判の名誉と権威を守るためにはどうしたらいいか?それには、まず自分の判定に自信を持つこと。これが大切だと思う。自己満足だけだとここまではやしえない。本当に満足だけ、自分の思ったとおりに出来たからそれでいい。そうなってしまう。そうではない、それだったら、自分で趣味でどこかの野球場に行って「審判やらせてください」って言ってやればいい話だし、自分で勝手にやってればいいと思う。そう、自己満足だったらそれでいいのだ。

しかし、今は少し違う。自己満足はもちろん大事だけど、それよりも大切な自信を持つこと、訓練をしっかりとつむこと。それを日々継続することによってそれが次第に審判に対しても名誉と権威につながっていくのではないかと私は思うのだ。

お店だってそうだと思う。例えば、食べ物屋さんを例にとったときに、自己満足だったら自分の腕で、料理を作って「はい、おしまい。う〜ん、よくできたね〜!」で終わってしまう。だったら、自分の家で趣味で料理を作っていればいい話だ。わざわざ、お店を開く必要はない。そうではない、もちろん自己満足は大切だが、お店にとって大切なのはお客様。お客様にとって、お客様に喜ばれる、足を運んでいただけるにはどうしたらいいのか?どのような料理を作っていけばいいのか?この考えがあるとないとではお店の雰囲気ががらっと変わると思う。

アンケートを取ったり、自家に意見を聞いたり。お店側の判断だけでやっていたらなかなか良いものは生まれてこないと思う。そこに、自己満足をこえた何かがあると思う。

自分たちのやりたいように、自己満足で行うのももちろん大切だ。それが出来たならば、もう少し視野を広げて今度は、どのようにしたら相手に喜ばれるのか?どのようにしたらさらにいいものになるのか?これを模索するのもいいと思う。

成功とは何か

2002年7月1日
決勝戦。『ブラジル2−0ドイツ』ブラジルの優勝で2002年日韓共催のワールドカップの幕を閉じた。1位 ブラジル 2位 ドイツ 3位 トルコそして、4位は韓国とアジアの躍進が光った大会だった。今日の新聞を見てみるとワールドカップは成功だった。という記事があちらこちらにのっかっている。確かに表向きは成功だろう。しかし、本当に成功だったといえるのだろうか?「チケット問題」「審判問題」など色々と問題も浮き彫りになったワールドカップだったと思う。つまり、完璧な形では成功とだったとは言い難いのだ。

ちょっと待てよ?そもそも完璧に成功だったなんて自体が存在するのだろうか?成功とは、何をもって成功というのか?これはニッシーがいつも思うことである。

そこで、ニッシーの持論だが完璧なんてものはこの世にはないと思う。ただし、完璧に近ければそれを成功というのだろうと。勝負の世界でもそうだ。勝負には完璧などない。ただし、完璧に近いものが勝つ。

今回のワールドカップも様々な問題があったにせよ、トータルするとFIFAが望んでいた、各自治体が臨んでいた大会に近いものができた。だから、成功と呼ぼうじゃないか!という思いがあって、『成功』という2文字を使ったのだと思う。真の成功ではなく、表向きの成功。これが成功というのかな?

2002年6月27日
ニッシーがよく行っているホームページで「夢」とは何かという問いかけがあった。はぁ〜「夢」ですか・・・なんだろう?とか思いつつ。自分なりの見解を書いておいたけど。ま〜それはいいとして、大学生になってからの「夢」について。

大学生になって、ニッシーはことごとく「夢」を打ち砕かれた。「夢」が叶わなかった。だから、「夢」をかなえた人を見るとすごくうらやましく思う。自分にとっての「夢」はいつになったら叶うのだろうか?

多分そのことに関しては、自分が一番ついていなかったように思う。最終的にはみんな誰かに持っていかれた。そう、何事に関しても。結局俺だとだめなんだ。ということでしょう。新しい環境でもう一度スタートラインにたちたい。そして、念願の「夢」をみたい。大学生活は後2年。(予定)この空間にいる限りニッシーの「夢」はかなわない気もしてきた。自分との戦いですね。戦っている気持ちはさらさらないんだけど。なんか情緒不安定。

テールライト?

2002年6月25日
終わった。と言うことで、テールライト?に引き続き、テールライト?と言うことで、書こうと思う。

終わった感想、と言うかこれは終わる前から思っていたのだが、欲を言うともう1年やりたいです。今まで、2年間この仕事をやってきて、やっとやっと今頃になって、あぁ〜そういうことなんだ!と自分自身の中での新たな発見というのが続々でてきた。特にあの委員会。委員長という職務を全うした今、やっとのこさでこういうことだということが自分自身の中で分かってきました。なので、本当によくを言うともう1年やって、それを確かめたいというのはあります。自分自身のやってきたことは成功だったのか?自分のやってきたことは果たして正しかったのか?はっきり言って、2年間ではその答えは自分の中では出なかったと思います。他の人は出ていたんだろうけど。自分はそれだけ要領が悪い人間だと言うことです。だからといって、もう1年やったところで答えが出るとも限らないんだけどね。でも、何かやりたいな〜と思うのが素直な気持ち。

でも、おそらくやらないでしょう。アドバイスはするかもしれないけど。世の中には時代の流れというのがある。時代の流れには逆らうことは出来ない。一応の節目を迎えたのであって、もうこの時点で業務的に解決できる立場ではなくなってしまったから。いや、本当はそういう線引きなんてないと思うのだけど、やっぱり役職も変わったし、節目が来たなって感じです。つまり、自分達の代で悔いが残ってしまった。そこは、ある意味負けというかしょうがないことなのですが悔いが残ります。期間内でおさまらなかった。ということです。

本当は、出来るのかもしれないけど自分にははっきり言って皆をまとめる力はありません。どちらかというと、皆を引っ張っていくのではなくて、リーダ−という存在の下についてその中で、さらに良い意見を出す。こちらの方が自分にとってはあっているのではないか。これが、委員長を1年やってきての自分の思ったこと。つまり、自分には委員長の器がなかったってことです。よみが甘かったんですよ。先を見通せなかった。1段先の階段しか見通せなかった。本当は、5段・6段先まで見通して全体のことを考える。これが委員長だと思います。1年やって感じたこと。

これから先どのように接していこうか。おそらく来る回数は格段に減るでしょうね。試験もあるし、就職活動?もしや公務員試験?野球の審判も本腰を入れたいと思っているし。(ちょっとだけアメリカ留学も検討中)自分の考えていること。やりたいことをやりたいようにやれ!これが自分の思っていること。自分がそれが出来なかったから。だからこそ、みんなには自由にやってほしい。そして、広げていってほしい。現状に満足することなく前よりもいいものに。

テールライト?

2002年6月23日
6月19日。

総会閉会日があった。

ニッシー達3年生が一応の節目を迎える日。

様々な問題があったが何とか終わることができた。

正直言ってほっとした。

部室に戻ったら後輩たちから色紙をもらった。

去年までは色紙を書いて渡す側だったのについに渡
される側になってしまった。

時代の流れを感じた。

しかしあまり終わったという実感はない。

中学時代のボート部の優勝のとき、大学の入学式。

あまり、実感はなかった。

後になってあぁ〜こんなことをしたな〜と実感が湧き出てくるので、すぐ直後の実感というのはありがとう〜。みんな。くらいで、自分自身に対する実感というのは湧き出てこないのだ。

そんなニッシーにとりわけうれしいことがあった。

6月23日。ニッシーの母校の高校の文化祭に行った。

コーラス部の発表を聞きに行くためだ。

行ったら驚いた。

なんと部員が15人もいたからだ。

ニッシーの現役当時はニッシーただ1人しかいなかった。

一昨年やっと部員が6人になって、廃部は免れたというときだった。

なんと部員は15人になっていた。思わず涙腺が緩んだ。

歌を聞きながら、自分の過去のことを振り返った。

自分が引退したあの日。今回と同じく後輩たちから色紙をもらった。そのときはあまり実感がなかった。

今になって、あのときの実感というのが湧き出てきた。自分が高校3年間コーラス部でやってきたことは正解だったのかもしれないと。

それは後輩たちが示してくれた。

15人という人数の多さだった。

はっきり言って驚いた。そして嬉しかった。

こんなにコーラス部を大きくしてくれた後輩たちに心からお礼を言いたい。どうもありがとう。と。

過去を振り返れば今が見える。今を振り返れば未来が見える。

今回の節目も後になったらいろいろと思うことがあるんだろうな〜。と思いつつ、旅を続けるのだった。

充実感

2002年6月15日
そろそろ将来のことを考える時期になってきた。別に、今まで考えてこなかったわけではないのだが漠然としていて具体的になにも思いつかなかった。でも、大学では何となく教職課程を取り、一応教師というフィールドを歩んでいる。しかし、最近教師という仕事もどうなのかと自分の中で思ってきた。教職の夏の履修深刻も申告するかぎりぎりまで考えた。結局履修申告はすることにした。あぁ〜またダラダラになってしまう。もっとすぱっと決められないものかな〜?

ところで、今日の日記のタイトルでもある充実感。ニッシーの中ではこの充実感は仕事を行ううえでの大きなポイントだ。ニッシーの中の定義というのは、お金でも人間関係でもない。自分にとってその仕事をやって、どんな充実感を得、それを生きがいに変えられるか。これが大切だ。これは自分の中での就職する上でのキーワードである。

その充実感、生きがいを感じるためにはどのような仕事につけばいいのか。それを考え中なのである。学校の先生のように相手と接することつまり、人間科学(フィールドワーク)を通して、相手にも充実感を与え、自分も充実感を覚える。2重で充実感を得る仕事と、科学者・研究者等のように自分独自に(ある程度の取り決めがあるにせよ)進め、極限の限界に挑み、その結果かけがえのない大きな充実感を得る仕事。

前者の仕事は、線が引かれていてその線を破っていくことで、また、新たな線が見つかっていきそれが充実になる。それに対して、後者は線は自分で引いていく。その線の本数をどんどん増やして行き最終的には、数多くの線の中から、これだという1本の強力な線をみつけていくという仕事。この2つのどっちの線にしようかというのが専らニッシーの中で考えていることである。

ニッシーは、大学生活の中で、今まで2つの線とも経験をしてきた。どちらもとても自分にとっては大きいものだ。どっちにすべきなのか?またどっちが自分にあっているのか?もうすぐニッシーの就職活動が始まろうとしている。

バイトの話?

2002年6月4日
さっき、バイトの愚痴?(昨日の日記参照)を書いたので,引き続きバイトの話。と言っても今度は塾講師での。

ニッシーは現在,2つのバイトをやっている。一つは水戸市内の某寿司屋。もう一つは塾講師だ。その塾のバイト先でのお話。

現在塾では、あることが講師の間(といっても一部)で話題になっている。それが、『トトカルチョ』だ!講師の先生がワールドカップでどの国が決勝トーナメントに進出するかを予想するかというもの。A組〜H組からそれぞれ、予選を突破すると思われる2チームを予想する。そして、見事的中した人にはトトカルチョ参加者から1000円をもらえるのだ!(^v^)ニッシーはあまりサッカーには興味はないのだが、思わず参加。全然サッカーの知識はないので、チーム予想もわずか1分で終わった。さぁ〜このトトカルチョ。ニッシーにとって吉と出るか?凶と出るか?

そもそも、こういったトトカルチョはニッシーの実家ではある時期になるとみんながはまる。それは高校野球。ニッシー家では、毎年高校野球の時期になるとニッシーがトーナメント表を実家に持ってきて,家族みんなでどこの高校が優勝するかを予想。各自3つまで予想できて、見事的中した人には,な・なんと!プリペイドカード3000円分がもらえるのだ。ニッシーが中学生の頃から始まったこのニッシー家トトカルチョだが、ニッシー未だに優勝チームを当てたことはない・・・がっくり。

なので、今回のトトカルチョも外れるのかな〜?とひそかに思っているが、どうかね〜。今回はニッシー本当に勘でやっているのでもしかしたら当たるかも?では、ニッシーがどういう基準でチームを選んだかちょっと紹介しよう。

【国名】<決勝トーナメントに残ると思った理由>
【ブラジル】<有名だから>
【コスタリカ】<水戸に来たから>
【カメルーン】<中津江村の影響>
【パラグアイ】<チラベルトが好きだから>
【韓国】<開催国だから>
【フランス】<ネームバリュー・前回優勝国>
【ロシア】<なんとなく>
【イタリア】<よくわからんがトッティがいるから>
【日本】<自国だから、開催国だから>

まぁ〜ほかにも色々と理由はあるけどこんなもんですよ。これで当たったら,まじめにかけた人には悪いんですけど…こんな理由です。ハイ。とまぁ〜こんなことで、塾にはサッカー好きの方が多いです。

この間テレビで『アルゼンチンーナイジェリア』の試合を見ました。え!これがあの、鹿嶋?というくらいテレビで見る限りではすごかったです。良いグラウンドでした。

と・ま〜こんなことを書いているのも今日は,『日本ーベルギー』の試合です。ニッシーはサッカーのことはよく分からないけど,ワールドカップは世界中の国が自国の威信をかけて戦う世界的行事。それがアジアで開催されることがすごいと思います。日本がどんな戦いをするのか?フランス大会の雪辱をはらせるのか?ニッシーは寿司屋から観戦します。頑張れ!日本。

だ〜か〜ら〜

2002年6月3日
やめようって。直前になってから連絡するの.バイト先から今日電話がかかってきて、いきなり、今日バイと入ってって。とてもニッシーやる気がしなかったので,本当は18:00からきちっと入れたんだけど,何かと理由をつけて何と20:00に出社.そんでもって、0:00までバイと.おかしいから。大体,変わる人も変わる人で,その日になって「都合が悪い」なんて言うんじゃない!前々から予定が分かっていたんなら,前々から「入れなくなっちゃったんですけど…」って言えばいいじゃないか!それなのに、その日になって「入れない」って言われたって困るから.まじで。

結局変わりで呼ばれるのは,何故かニッシーだし.(4年生の人は就職活動中、2年生は何故か病弱てなわけでなぜかいつもニッシー。)今度店側に言おうかな〜?「直前に連絡するのはやめてください!」って。でも、店側に全部責任があるわけではないし。難しいですな.

おまけにその日(変わった日)は、とても疲れててまじで眠たかったんだって.最後はちょっと(いやかなり)不機嫌でした。そりゃ〜いきなりでしょうがないかもしれないけどさ、もうちょっと早めに連絡できないものかね〜。どんなに遅くても前日までには。そうすれば、こっちもまだ変わるって気になれるのに。店側は、給料を多くつけるって言っているけど、それで全てが解決できる問題じゃないんだよね。店側も給料の話で何とかやってもらおうと思っているみたいだけど、ニッシーにとってはそんなのは、まぁ〜給料をもらうのは当然だけど、給料というのはあくまでもきちんと働いた分に科せられるまぁ〜言わばご報美的なものだと考えているので,予定外とは別。なんとかならないものかね〜。

いつもニッシーが変わってるんだからね〜。

最近は色々と疲れているし,本当は月曜はとっとと帰って休みたかったんだよな〜。ホームページも更新してないし。本も読まなくちゃいけないし。レポートもやらなきゃいけないし。日曜には審判もあるし。だ〜か〜ら〜忙しいんだって。完璧な言い訳ですが,ちょっと一言言わせていただきました。

記憶

2002年5月29日
人の記憶とは不思議なものだ。普段学校で勉強していることは、1時間授業中に勉強しても半分は忘れてしまう。これを覚えるには、自分で一生懸命勉強して始めて頭に残る物になる。

それに対し、流れの中での記憶。その情景の記憶、そういう記憶は別に勉強しなくても、特別な努力をしなくても鮮明に頭に残っている物だ。それが自分の中での記憶・印象・思い出の度合いが強ければ強いほどかなり鮮明になって頭に思い浮かぶ。○○をした場所。周りにあった木、電柱の本数、相手の表情、周りの視線等等。本当に鮮明に覚えているものだ。誰もが一度は経験をしたことがあるだろう。ニッシーもその中の1人である。

大学生になって、最近そういう経験をしていない。そういう記憶に出会う機会が少なくなった気がする。いや、少なくなったというのではない。数としては変わっていないのだろうけど、何だろう?おそらく、思い出の度合いが低いのだろう。だから自分には良い風には映らない。そういうことなのだろう。

そろそろ何か印象が強くなるようなビックな物がほしい。

スーツ

2002年5月26日
最近普段学校に行くときもスーツを着る機会が多くなってきたニッシ―。

【理由】
?塾のバイトがその日にあるため。(バイトはスーツを着なくてはいけない。)

?何かにつけてのニッシーの勝負服。(ここ一番というときにスーツを着用し、気合をいれる。)

?着る服を選ぶのが面倒くさいから。

んでもって、本日は?の理由でスーツを着ています。今日はバイトもありません。でも、スーツを着ると,やっぱり普段より心なしが何処からかピシットしまる気が・・・正装ってやっぱそんなものなのかね〜。

この間塾のバイトで言われたこと。
「ニッシ―先生はあれだよね。(そうあれだよ!あれ)なんか普通にこんなスーツ着た人って学校にいそうだよね。白衣とか着るとまさに理科の先生だよ。どこの学校にもいそうな。」

当たっているかも・・・

よって、近々赤いネクタイを購入予定。

井戸の中

2002年5月22日
玉砕。悔しい。でも、今回は、あまりにも急すぎる。自分の中でまとめられなかった。だって急だったんだもん。と言い訳すれば、あれだけど、結局は自分が悪い。

また、自信を無くした。結局自分は井戸の中の蛙。

恋愛について

2002年5月14日
久々にこのタイトル。この言葉と無縁になって、もうすぐ半年になろうとしている。自分に訪れてくる人生というのは不幸なものしかない。と落ち込んでいたときよりは多少は回復してきた。ま〜完全ではないが、もうあの件についてあぁ〜だこうだ言うことはないだろう。

最近は、特にこれといって何もありません。ずっと独り者です。一人のほうがかえって楽です。自分の時間は持てるし、自分のペースで動けるし、かえってこっちの方が楽なのかな?とか最近思ってきました。

ホームページに恋愛のことを書くのもしばらくの間は休止したいと思っています。なので、最近はニッシーすら裏コンテンツを全然見ていません。て言うか書く意義はもう無いような気がしてきたので。多分しばらくの間は書かないでしょうね。もしかしたら一生書かないかもしれない。ま〜それはその時々のニッシーの状況で。

そして、それと同時にこのダイアリ〜の〜とにも恋愛のことは書くつもりはありません。たとえ、誰かと付き合ったという事実が生じたとしても。ここに書く意義がないからです。書いたところでどうにかなるものではないと思うし。だから、ニッシーの恋愛はまずないと思いますが、それを知っている人は今後は何かの縁でニッシーが恋しているという事実を知った人。この人のみに限られますね。ま、芋づる式に広がっていくとは思いますけど。確認の意味で書いておきますが、現在ニッシーには彼女・恋人と呼ばれるような存在はいません。

さて、「ニッシーは友達で終わるタイプ」これは中学生のときから今にいたるまで、何人もの人に言われてきた言葉です。そして、自分自身でもこれは当たっていると多少なりとも思います。そして、自分がこの事を話すとこの話しを聞いた、全員の人が「あ〜」と同意する態度を取ります。つまり、「ニッシーは一生彼女出来ないよ。」とニッシーが言うと「いやいや、そんなことはないよ!ニッシーだって、彼女絶対出来るって」という類の人は多々いるのですが、「ニッシーは友達で終わるタイプじゃん」と言うニッシーの問いに関しては、「あ〜」と全ての人が同意を示しています。ここで、「いやいや、そんなことないよ!」と言う人が1人もいないのです。なので、その様な人に会ったことがまだありません。

これは、別にその言葉を発した人にあぁ〜だこうだ言っているのではないので誤解なさらないでください。問題は、最近ニッシー自身自分のその様な性格を容認してきた。そのように思うのです。そうと自覚してしまえば、異性と接するのは簡単です。持ち前のニッシースマイル等々で、異性とも気軽に話せます。学科の友達、サークルの友達等々。普通に喋る分には何も支障はありません。ま、あまり縛られるって事がないのでこっちの方が楽なのかな?って最近思ってきました。

だから、別に彼女なんて出来なくたって良いいんジャンと最近思ってきて、誰とでも均等に接しようと。最近そのように思ってきました。

しかし表面上はそう思っていても、内面はそれとは裏腹みたいで、今でも街中で異性と2人で仲良くしている姿。日記にいろいろと恋愛について書いてあること。2人でデートをしている姿を見ると、あぁ〜やっぱり自分もあぁ言う存在がほしいな〜。と無性に思ってしまいます。そこが事実と矛盾している所ですね。

自分はあまり過去をふりかえると言うことはしない人間なのですが、時たま「もし」の存在について考えます。これは恋愛のみならず、他の何事についてもそうです。

■もし、あの時始めの時点できちんとビジョンを見通していれば、もっとスムーズに審議が進んでいただろう。

■もし、あの時きちんと右を確認していたら、接触をしなくてすんだのだろう。

■もし、自分にもっと威厳があったらきちんと質問に答えられただろう。

■もし、2年生の授業をまじめに出ていたら、もっと良い単位が取れただろう。

■もし、あの時きちんと注意していれば、角質は持たなかっただろう。

・・・・・・そして

■もし、今恋人がいたら、幸せな人生を送っているだろう。愚痴を言っているだろう。色々打ち明けていただろう。

と・ま〜挙げればきりがない。本当はタイム士マシーンでも使って、『もし』のせかいを現実の世界にしてしまえばいいのかもしれない。しかし、人生に『もし』の理念は通用しない。それは、あくまでももしの世界であり、それを認めることは即ち嘘を認めることになる。しかし、人は『もし』の言葉をよく使う。

もしの回数と人生経験が比例して行くと良いのだが・・・
新入生と談笑。自分も昔そんなことがあったな〜とふりかえる。今思えばあのときは楽しかった。そう、人は時に過去を振り返り現在の自分と比較する。

小学生時代、球の体積がどうしても求められなかった自分。親に「どうしてこんなものも解けないのか!」と怒鳴られたこともあった。さらに、足し算もできなかった。3+3をなぜか9と言っている自分がいた。そんなニッシーだが、現在では茨城県内の某大学理学部数理科学科で数学を専門に勉強している。

中学時代、体育祭に一番力を注いでいた。まさかのリレーでの逆転負け。自分は呆然とした。3日間ご飯が食べられなかった。そんななか、昨年久しぶりに母校の体育祭を見に行った。白組が勝っていた。なぜかうれしさが自分の中でこみ上げていた。現在では、教員の道は諦め、もっと社会に貢献出来るような仕事を探している。

高校時代、野球応援で母校を熱心に応援していた。絶対に勝てないと言われていた相手。延長戦の末何と勝った時、その瞬間みんなで泣いた。抱きあった。そして現在、母校は飛躍的な活躍を遂げ夏の大会のシード権を獲得した。今年こそはという希望とともに自分も野球の審判としていつかはあの舞台に立ちたいと願っている。

そして今、大学生。様々な壁。やってくる試練。そんな毎日を過ごしている。そして、たまになぜか空を見上げている。そして今も進化を遂げている。なぜなら、旅はまだ終わらないから。果てしない旅。まだ人生は4分の1を過ぎたあたりである。旅はまだ終わらない。

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