ナンバーワンよりオンリーワン
2003年9月18日ご存知、SMAPが歌って大ヒットした曲である。歌詞を見てみると学校の先生なんかが好きそうな歌詞で、学校教育なんかではよく引用されそうな雰囲気もある。
この間、この歌に関してエッセイを書いてあるホームページを見た。そこにはこう書いてあった。「一体これは誰に向けての歌なんだろうか?『ナンバーワンにならなくても良いから』なんて、”一生懸命に努力して、一番になってやる!”事を否定しているんだろうか?『もともと、特別なオンリーワン』ってどういうことだ?」
確かにそれは思う。果たしてこれは一体誰に向けての歌なのだろう。誰に向かって歌っているんだろう。そこのところをもう1度よく考えてみよう。
確かにオンリーワンというのは大事である。それでは、そもそもどこまでをオンリーワンというのだろう。そういった線引きはない。例えば、オンリーワンだといって物を取ったりとかいじめをしたりとかそういうのはしてはいけないわけだし、大体学校内でオンリーワンのことをしようとするとそれについて「ちょっと待った」というやから(特に教師)がいるし。
自分(達)にとって最高のもの。これがオンリーワンなのだろうか。つまり、周りが何といおうと自分(達)にとって満足の結果ならそれで良い。そこで得たものはかけがえのないものだし。
こういうことだろうか。これは一理ある。しかし、これは現状の自分に満足しているとも取れる。例をあげるとマラソン選手の高橋尚子選手や柔道の田村亮子選手は、ナンバーワンを目指しその結果オンリーワンになれた。
となると、ひとつの疑問がわいてくる。ナンバーワンとオンリーワンは別物なのだろうか?ニッシーも昔はオンリーワン的な考えだった。ただ、しだいに色々と物事を積み重ねるに従い、ナンバーワンというのも頭によぎり、目標を立てるようになった。目標と言うのは大きな目標があって、その中に小さな目標がある。オンリーワンだけだと、小さな目標は達せられるかもしれないけど大きな目標はオンリーワンでは足りなくなる。それはナンバーワンなのだ。
はたして、この歌は一体何なんだろうか。少し疑問に思った。
この間、この歌に関してエッセイを書いてあるホームページを見た。そこにはこう書いてあった。「一体これは誰に向けての歌なんだろうか?『ナンバーワンにならなくても良いから』なんて、”一生懸命に努力して、一番になってやる!”事を否定しているんだろうか?『もともと、特別なオンリーワン』ってどういうことだ?」
確かにそれは思う。果たしてこれは一体誰に向けての歌なのだろう。誰に向かって歌っているんだろう。そこのところをもう1度よく考えてみよう。
確かにオンリーワンというのは大事である。それでは、そもそもどこまでをオンリーワンというのだろう。そういった線引きはない。例えば、オンリーワンだといって物を取ったりとかいじめをしたりとかそういうのはしてはいけないわけだし、大体学校内でオンリーワンのことをしようとするとそれについて「ちょっと待った」というやから(特に教師)がいるし。
自分(達)にとって最高のもの。これがオンリーワンなのだろうか。つまり、周りが何といおうと自分(達)にとって満足の結果ならそれで良い。そこで得たものはかけがえのないものだし。
こういうことだろうか。これは一理ある。しかし、これは現状の自分に満足しているとも取れる。例をあげるとマラソン選手の高橋尚子選手や柔道の田村亮子選手は、ナンバーワンを目指しその結果オンリーワンになれた。
となると、ひとつの疑問がわいてくる。ナンバーワンとオンリーワンは別物なのだろうか?ニッシーも昔はオンリーワン的な考えだった。ただ、しだいに色々と物事を積み重ねるに従い、ナンバーワンというのも頭によぎり、目標を立てるようになった。目標と言うのは大きな目標があって、その中に小さな目標がある。オンリーワンだけだと、小さな目標は達せられるかもしれないけど大きな目標はオンリーワンでは足りなくなる。それはナンバーワンなのだ。
はたして、この歌は一体何なんだろうか。少し疑問に思った。
ゼミ合宿
2003年9月5日ゼミ合宿が近い。ゼミの勉強・・・頑張るのみ。
頑張れば、夜はおいしい酒が待っている。
ま、そういう楽しいこともあるんだけど・・・
色々と大変なわけでして。ふぅ〜人間関係って難しいね。
(続きは秘密日記で、秘密日記見たい人はニッシーまで連絡してね。)
頑張れば、夜はおいしい酒が待っている。
ま、そういう楽しいこともあるんだけど・・・
色々と大変なわけでして。ふぅ〜人間関係って難しいね。
(続きは秘密日記で、秘密日記見たい人はニッシーまで連絡してね。)
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東京
2003年9月2日2日に東京に行く機会がありました。自分にとっては本当に有意義な東京でした。東京組の友達と遊ぶ機会も増え、だんだんと東京の魅力、東京人について、少しずつではありますが、自分なりの東京のイメージが変わりつつある様なそんな気がします。
ニッシーの以前の東京に対するイメージは、「東京人は暗い人が多い。」と言うイメージでした。そのイメージは今でも同じです。これは、お店に入って店員さんの行動を見るとよく分かるのですが、どうも水戸市と比べるとあまりにも杓子定規で笑顔もあるんだけど、良くも悪くもマニュアルどおりというか・・・そんな感じが往々にしました。
でも、東京の友達と遊ぶときは、そんな感じはなく、とても明るく接してもらえますので、接客などと言った不特定多数の人を相手にする場合は、警戒心が強くなっちゃって、冷たく見えてしまうのかな。とニッシー少し思いました。確かに、東京はいいところがある反面、危ないところも多いですからね。そういうところも無理ないのかな。と、都会ならではの一面を見ている感じが、東京に行くとよく見えます。
そんな警戒心が見え隠れしているのか、東京の友達と遊ぶ機会が増えて意外な一面が見えてきました。東京の友達は、何かと「コンビニ、コンビに」と言います。そんなにコンビニに行くのかな?と思いきや、目的はATMだそうです。友人曰く、「友達も皆こんな感じだ。」と言うのです。つまり、普段は現金はそんなに大金を持ち歩かないで、必要が生じたときにコンビニに入ってATMで引き落とすという形になっているらしい。
これは、ある意味コンビニのメリットを出しているとは思うがコンビニで現金を引き落とす場合は、手数料がかかることもしばしばで一概に良いとはいえないが、コンビニがたくさんある東京ならでは出これはニッシー少し驚きました。今は、コンビにって言うと、ATMってことが往々にしてあるんですね。いや〜なんだか時代の流れを感じました。水戸には、以前にはコンビニにATMは東京ほど普及していなかったので、東京ほどATMで現金を下ろすという人は少なかったのだが、最近はどんどんとコンビに内にATMが設置されるようになっています。だんだんと水戸も東京のようになるのだろうか。どんどん便利になっていくんだね〜。
そんな東京だが、便利なのは何にせよ交通の便が非常に良いと言うところ。JR、私鉄、地下鉄いずれもかなり充実していて、時刻表を気にしなくても電車があるし5分も待てば次の電車がすぐにやってきます!ニッシーも東京に行きますが、これはすごい便利ですね。非常にありがたいです。
しかし、これが東京人に微妙な心理をもたらしていた。この間、東京の友達と夜遅くまで遊んで帰り電車を駅のホームで待っていました。前の電車がそのときちょうど行ってしまったところで、次の電車を待っていました。時刻表を見ると次の電車まで10分待ち。普段は、もっと早いのですが、夜も遅いと言うことで電車のやってくる間隔も伸びてきています。しかし、それでも10分待ちなら普段日中で30分に1本しか電車が来ない水戸人からすれば全然感覚が短いほうです。
ところが、ニッシーの隣にいた東京の友達が不思議なことを口にしました。「何か、電車が来ないと不安になるよね。」そりゃ〜電車は来ませんが、10分後にはやってきます。なのに、不安だと言うのです。さらに、友達は「5分以上来ないと不安になる。」と言うのです。確かに、東京都心部は電車の時刻など気にしなくても駅に行けば電車があるので時刻が分からないと言うのは分からなくもないですが、それにしても10分間電車が来ないだけで不安になるとは驚きました。便利すぎな都心部の現状がここにあるきがしました。
個人的には、10分くらい我慢しようよって感じです。確かに、便利なことは便利です。しかし、その便利な反面こういう気持ちが起きているんだと驚かされました。でも、どうだろうな〜。ニッシーもインターンシップで巣鴨にいたとき、電車がひょいひょい来るのですごく便利だと思いました。確かに、10分もこなかったら不安になっちゃうのかな〜?複雑な心理な気がしました。
ニッシーにとってそんな東京ですが、便利なところはやはり都心部ということで物が豊富です。今回、ゼミの先生の紹介で理系関係の書類(特に数学関係)を見に行ったのですが、本があるある。古本屋にも行ったのですが、まず理系専門の古本屋があるのがびっくり。ほんの値段も安いし、絶版になった本までありました。これはすごい!と言うことで、ニッシー思わず3冊購入してしまいましたが、本当にいい買い物でした。大量!大量!それと、洋書も豊富でたくさん置いてある店もよく見受けられます。使い方によっては、東京の本屋は良いですよ。自分の目的があった本にめぐり合えます。
とま〜色々と書いたのですが、東京はたまに行くにはいいところだな。と思いました。目的意識をしっかり持っていくと東京は良いですね。色々と物もあるし、今回は書きませんでしたが結構観光名所もあります。ただ、住もうとは思わないですね。物価が高い・・・何にしても。水戸のが断然安いです。
また、機会があったら東京を散策しようと思います。
ニッシーの以前の東京に対するイメージは、「東京人は暗い人が多い。」と言うイメージでした。そのイメージは今でも同じです。これは、お店に入って店員さんの行動を見るとよく分かるのですが、どうも水戸市と比べるとあまりにも杓子定規で笑顔もあるんだけど、良くも悪くもマニュアルどおりというか・・・そんな感じが往々にしました。
でも、東京の友達と遊ぶときは、そんな感じはなく、とても明るく接してもらえますので、接客などと言った不特定多数の人を相手にする場合は、警戒心が強くなっちゃって、冷たく見えてしまうのかな。とニッシー少し思いました。確かに、東京はいいところがある反面、危ないところも多いですからね。そういうところも無理ないのかな。と、都会ならではの一面を見ている感じが、東京に行くとよく見えます。
そんな警戒心が見え隠れしているのか、東京の友達と遊ぶ機会が増えて意外な一面が見えてきました。東京の友達は、何かと「コンビニ、コンビに」と言います。そんなにコンビニに行くのかな?と思いきや、目的はATMだそうです。友人曰く、「友達も皆こんな感じだ。」と言うのです。つまり、普段は現金はそんなに大金を持ち歩かないで、必要が生じたときにコンビニに入ってATMで引き落とすという形になっているらしい。
これは、ある意味コンビニのメリットを出しているとは思うがコンビニで現金を引き落とす場合は、手数料がかかることもしばしばで一概に良いとはいえないが、コンビニがたくさんある東京ならでは出これはニッシー少し驚きました。今は、コンビにって言うと、ATMってことが往々にしてあるんですね。いや〜なんだか時代の流れを感じました。水戸には、以前にはコンビニにATMは東京ほど普及していなかったので、東京ほどATMで現金を下ろすという人は少なかったのだが、最近はどんどんとコンビに内にATMが設置されるようになっています。だんだんと水戸も東京のようになるのだろうか。どんどん便利になっていくんだね〜。
そんな東京だが、便利なのは何にせよ交通の便が非常に良いと言うところ。JR、私鉄、地下鉄いずれもかなり充実していて、時刻表を気にしなくても電車があるし5分も待てば次の電車がすぐにやってきます!ニッシーも東京に行きますが、これはすごい便利ですね。非常にありがたいです。
しかし、これが東京人に微妙な心理をもたらしていた。この間、東京の友達と夜遅くまで遊んで帰り電車を駅のホームで待っていました。前の電車がそのときちょうど行ってしまったところで、次の電車を待っていました。時刻表を見ると次の電車まで10分待ち。普段は、もっと早いのですが、夜も遅いと言うことで電車のやってくる間隔も伸びてきています。しかし、それでも10分待ちなら普段日中で30分に1本しか電車が来ない水戸人からすれば全然感覚が短いほうです。
ところが、ニッシーの隣にいた東京の友達が不思議なことを口にしました。「何か、電車が来ないと不安になるよね。」そりゃ〜電車は来ませんが、10分後にはやってきます。なのに、不安だと言うのです。さらに、友達は「5分以上来ないと不安になる。」と言うのです。確かに、東京都心部は電車の時刻など気にしなくても駅に行けば電車があるので時刻が分からないと言うのは分からなくもないですが、それにしても10分間電車が来ないだけで不安になるとは驚きました。便利すぎな都心部の現状がここにあるきがしました。
個人的には、10分くらい我慢しようよって感じです。確かに、便利なことは便利です。しかし、その便利な反面こういう気持ちが起きているんだと驚かされました。でも、どうだろうな〜。ニッシーもインターンシップで巣鴨にいたとき、電車がひょいひょい来るのですごく便利だと思いました。確かに、10分もこなかったら不安になっちゃうのかな〜?複雑な心理な気がしました。
ニッシーにとってそんな東京ですが、便利なところはやはり都心部ということで物が豊富です。今回、ゼミの先生の紹介で理系関係の書類(特に数学関係)を見に行ったのですが、本があるある。古本屋にも行ったのですが、まず理系専門の古本屋があるのがびっくり。ほんの値段も安いし、絶版になった本までありました。これはすごい!と言うことで、ニッシー思わず3冊購入してしまいましたが、本当にいい買い物でした。大量!大量!それと、洋書も豊富でたくさん置いてある店もよく見受けられます。使い方によっては、東京の本屋は良いですよ。自分の目的があった本にめぐり合えます。
とま〜色々と書いたのですが、東京はたまに行くにはいいところだな。と思いました。目的意識をしっかり持っていくと東京は良いですね。色々と物もあるし、今回は書きませんでしたが結構観光名所もあります。ただ、住もうとは思わないですね。物価が高い・・・何にしても。水戸のが断然安いです。
また、機会があったら東京を散策しようと思います。
お盆を振り返って
2003年8月19日今年のお盆は関東地方は、お盆というような気候ではなかったが、なんというか・・・雨ばっかでしたね。ま、そんなお盆について振り返ってみようと思う。
ニッシーは、アルバイトの休みを14日〜17日まで取っていたので実質的にはこの4日間がお休みだったのだが、14、15日は野球の審判があった。なので、ニッシーの実質的お盆は16、17日の2日間。この2日間で親戚めぐりをしようと思っていた。
しかしながら、幸か不幸かこの雨で楽しみにしていた野球の審判は2日間共に雨天中止。急遽予定を変更して、14日から母方の両親である埼玉の親戚の家でゆっくりすることになった。
14日は、自分のホームページにも書いたがニッシーの従兄弟の女の子(高2)がオーストラリアに1年間留学するということで、親戚一同成田空港でお見送りした。お見送り終了後、成田から埼玉まで向かうことになった。ニッシーが運転したのだが、外は大雨で運転大変だった。
15日は、自分のホームページにも書いたがニッシー1日中寝ていた。普段の疲れが出たのだろう。気づいたらお袋も布団の中にずっといたまんまだった。普段パートに出て、家事をこなしているのでその疲れが出たのだろう。親戚の家にいれば、全て向こうがやってくれるので、気が楽なのかもしれない。父も本当は親戚の家でのんびりする予定だったのだが、会社の監査の関係で仕事があるという。ま、仕方ないか。父も大変だからな。適度に体を休めないと危ないと個人的には思っている。
16日は、従兄弟のおじさんの提案で群馬県の温泉に行ってきた。結構良い湯だった。結局せっかく親戚の家に行ったのにあいにくの天気も重なりそこしか行けなかった。ま、その分休んだので十分だ!
今回、お盆で親戚の家に行ってちょっとおもったことが、ニッシーが持っていったパソコンが好評だった。ニッシーのパソコンには、『クイズアネオリミ』と『ozawa-ken』がダウンロードされているのだが、従兄弟の3番目の女の子(中1)は、アネオリミに夢中だった。でも、案外問題分かっていなかった。でも、中学生にしたら難しいかな?あの問題は。
中には分かっていてほしいなって問題もあったけどね。ニッシーは中学生のときはクイズが好きだったので、結構時事問題とかには詳しかったのだが、今はだめなのかな?とか少し思ってしまった。いまや、中学生まで携帯電話を持つ時代だからね。個々の価値観が多様になってきているように思う。しかし、中にはそれを履き違える人もいるから。皆が持っているから、皆がやっているから、こういう考えは本当は通じないと思う。少なくとも日本では通じてしまうんだよね。why?って聞かないから。そして、討論をあまりしないから、訓練されていないし。ま、そこはきちんと大人が指導していかなければならないと思う。結局は、私は最終的には親の責任だとは思っている。だから、自分は将来的には自分の子供にはしっかりと躾はしていきたい。ただ、子供の考えは尊重するつもりだ。まだ、彼女がいないのにこのせりふは少し早いかな。(笑)
そして、母はozawa-kenに夢中だった。自分がブラインドタッチが早いのを見て、燃えたらしい。母は、昔いまや懐かしいタイプライターをかなり早く打っていたのを子供ながら思い出す。当時は家族の中では一番打つのが早かった。しかし、現在はやはり、パソコンを使っていないせいか、以前ほどのスピードはなくなっていた。なので、ozawa-kenで猛特訓していた。学習意欲は母はすごいので、何回もやっていたね。何か、印象的だった。
何か、色々な人の意外な一面が見れたお盆だった気がする。ニッシーはまだ学生だけど、中には親戚どもにお小遣い上げている人も同い年でいるんだろうなと思いつつ、最後はお小遣いをもらっちゃった。(笑)学生にとってこの臨時収入は大きい。^^
ま、何はともあれそんなお盆だったかな。ちょっとエッセイになっていないけど書いてみました。^^
ニッシーは、アルバイトの休みを14日〜17日まで取っていたので実質的にはこの4日間がお休みだったのだが、14、15日は野球の審判があった。なので、ニッシーの実質的お盆は16、17日の2日間。この2日間で親戚めぐりをしようと思っていた。
しかしながら、幸か不幸かこの雨で楽しみにしていた野球の審判は2日間共に雨天中止。急遽予定を変更して、14日から母方の両親である埼玉の親戚の家でゆっくりすることになった。
14日は、自分のホームページにも書いたがニッシーの従兄弟の女の子(高2)がオーストラリアに1年間留学するということで、親戚一同成田空港でお見送りした。お見送り終了後、成田から埼玉まで向かうことになった。ニッシーが運転したのだが、外は大雨で運転大変だった。
15日は、自分のホームページにも書いたがニッシー1日中寝ていた。普段の疲れが出たのだろう。気づいたらお袋も布団の中にずっといたまんまだった。普段パートに出て、家事をこなしているのでその疲れが出たのだろう。親戚の家にいれば、全て向こうがやってくれるので、気が楽なのかもしれない。父も本当は親戚の家でのんびりする予定だったのだが、会社の監査の関係で仕事があるという。ま、仕方ないか。父も大変だからな。適度に体を休めないと危ないと個人的には思っている。
16日は、従兄弟のおじさんの提案で群馬県の温泉に行ってきた。結構良い湯だった。結局せっかく親戚の家に行ったのにあいにくの天気も重なりそこしか行けなかった。ま、その分休んだので十分だ!
今回、お盆で親戚の家に行ってちょっとおもったことが、ニッシーが持っていったパソコンが好評だった。ニッシーのパソコンには、『クイズアネオリミ』と『ozawa-ken』がダウンロードされているのだが、従兄弟の3番目の女の子(中1)は、アネオリミに夢中だった。でも、案外問題分かっていなかった。でも、中学生にしたら難しいかな?あの問題は。
中には分かっていてほしいなって問題もあったけどね。ニッシーは中学生のときはクイズが好きだったので、結構時事問題とかには詳しかったのだが、今はだめなのかな?とか少し思ってしまった。いまや、中学生まで携帯電話を持つ時代だからね。個々の価値観が多様になってきているように思う。しかし、中にはそれを履き違える人もいるから。皆が持っているから、皆がやっているから、こういう考えは本当は通じないと思う。少なくとも日本では通じてしまうんだよね。why?って聞かないから。そして、討論をあまりしないから、訓練されていないし。ま、そこはきちんと大人が指導していかなければならないと思う。結局は、私は最終的には親の責任だとは思っている。だから、自分は将来的には自分の子供にはしっかりと躾はしていきたい。ただ、子供の考えは尊重するつもりだ。まだ、彼女がいないのにこのせりふは少し早いかな。(笑)
そして、母はozawa-kenに夢中だった。自分がブラインドタッチが早いのを見て、燃えたらしい。母は、昔いまや懐かしいタイプライターをかなり早く打っていたのを子供ながら思い出す。当時は家族の中では一番打つのが早かった。しかし、現在はやはり、パソコンを使っていないせいか、以前ほどのスピードはなくなっていた。なので、ozawa-kenで猛特訓していた。学習意欲は母はすごいので、何回もやっていたね。何か、印象的だった。
何か、色々な人の意外な一面が見れたお盆だった気がする。ニッシーはまだ学生だけど、中には親戚どもにお小遣い上げている人も同い年でいるんだろうなと思いつつ、最後はお小遣いをもらっちゃった。(笑)学生にとってこの臨時収入は大きい。^^
ま、何はともあれそんなお盆だったかな。ちょっとエッセイになっていないけど書いてみました。^^
大自然へ行こう
2003年8月4日世間では夏休み。ニッシーの大学もようやく夏休みになった。まぁ〜ニッシーの大学は9月いっぱいは夏休みなので、まぁ〜普通の小中高校生よりは長い期間の休みだ。
この夏休み。どこに行こうかと検討している人も多いかと思う。ニッシーもどこに行こうかと思っていたのだが、取りあえず9月1日から友人たちと海に行くことになった。海か・・・実は行ったことがないので少々不安なのだが、ぜひ楽しんで行きたい。他には、9月中旬にはゼミ合宿もある。そして、9月の前半JRの格安切符軍団が消滅してしまう前にどこか国内の大自然にも触れたいと思っている。詳細はまだ検討中だが、お金に余裕があればぜひとも行きたい。
大自然。夏休みどこに行こうか考えている人にはぜひとも大自然に触れてもらいたいなとニッシー個人的には思うのだ。遊園地や、テーマパークなどももちろんいいだろう。それはもちろん否定はしない。しかし、これをきっかけに大自然に触れてみてはいかがだろうか。
それは国内でも海外でもいい。とにかく、普段生活しているところとは違う環境に身をおくこと。それで十分だ。そこで各個人個人思うことがあるだろう。その思いが大切。それをぜひとも次からのステップにしてもらいたいと個人的には思う。
と思うのも、最近世の中では物騒な事件が続いている。青少年の犯罪だったり小学生までもが補導されてしまったり、ニッシーの同世代でも色々なことが起こっている。何か、不安な世の中。そして、それを多くの人は語ろうとしない。いや、語れないのだ。本当のことは、本当に信頼しあえる人にしか言えない。そしてそれは誰かと聞かれると・・・いないって人も多いんじゃないかな。この、誰にもいえない気持ちをどうしたらいいのか。そんなとき、ニッシーが思ったのが大自然なのだ。
なぜかそこには不思議な力がある気がする。家族でもぜひともいってほしいと思う。そこで何か感じてほしい。逆に感じない人は・・・人間としてちょっと悲しいと思う。何かみんなあるはずだ。決して解決にはならないと思う。でも、何かの手がかりにはなると思う。
そして、その思った気持ちを強要してはいけない。「どうだった?」なんて聞くなんてもってのほか。ある人が何か思っているとき、ある人は何かを思い、はたまたある人は何か思い、決して、強制はいけない。自分で思うこと。それが大切だと思う。
そういう力が普段と違う環境に出るとあると思う。そこからまた違った発想が出てきて、何か今後の手助けになってくれれば・・・最近このように思う。
この夏休み。どこに行こうかと検討している人も多いかと思う。ニッシーもどこに行こうかと思っていたのだが、取りあえず9月1日から友人たちと海に行くことになった。海か・・・実は行ったことがないので少々不安なのだが、ぜひ楽しんで行きたい。他には、9月中旬にはゼミ合宿もある。そして、9月の前半JRの格安切符軍団が消滅してしまう前にどこか国内の大自然にも触れたいと思っている。詳細はまだ検討中だが、お金に余裕があればぜひとも行きたい。
大自然。夏休みどこに行こうか考えている人にはぜひとも大自然に触れてもらいたいなとニッシー個人的には思うのだ。遊園地や、テーマパークなどももちろんいいだろう。それはもちろん否定はしない。しかし、これをきっかけに大自然に触れてみてはいかがだろうか。
それは国内でも海外でもいい。とにかく、普段生活しているところとは違う環境に身をおくこと。それで十分だ。そこで各個人個人思うことがあるだろう。その思いが大切。それをぜひとも次からのステップにしてもらいたいと個人的には思う。
と思うのも、最近世の中では物騒な事件が続いている。青少年の犯罪だったり小学生までもが補導されてしまったり、ニッシーの同世代でも色々なことが起こっている。何か、不安な世の中。そして、それを多くの人は語ろうとしない。いや、語れないのだ。本当のことは、本当に信頼しあえる人にしか言えない。そしてそれは誰かと聞かれると・・・いないって人も多いんじゃないかな。この、誰にもいえない気持ちをどうしたらいいのか。そんなとき、ニッシーが思ったのが大自然なのだ。
なぜかそこには不思議な力がある気がする。家族でもぜひともいってほしいと思う。そこで何か感じてほしい。逆に感じない人は・・・人間としてちょっと悲しいと思う。何かみんなあるはずだ。決して解決にはならないと思う。でも、何かの手がかりにはなると思う。
そして、その思った気持ちを強要してはいけない。「どうだった?」なんて聞くなんてもってのほか。ある人が何か思っているとき、ある人は何かを思い、はたまたある人は何か思い、決して、強制はいけない。自分で思うこと。それが大切だと思う。
そういう力が普段と違う環境に出るとあると思う。そこからまた違った発想が出てきて、何か今後の手助けになってくれれば・・・最近このように思う。
最近のニュースから
2003年7月11日最近批判的な日記が多いですが、ま、勘弁してください。そもそもそういうページなのかな?ここは?一応その日の記録の部屋拡張版ですので。(^_^.)メインは、ホームページホームページみてね!(笑)
いや〜なんか、最近日本全国いやなニュースが続いていますが・・・その裏で世の中の大人たちが不謹慎な発言を連発。
何ですか?「親は市中引き回しのうえ打ち首にすればいい」鴻池大臣。あなた、何を言っているんですか!確かに、この少年を犯してしまったことはひどいことだと思います。しかし、この少年の両親は一体どんな気持ちで毎日を迎えているのか?そういうのを考えているのですか?私は大臣のことを詳しく存じ上げませんが、まったく持って不謹慎な発言だと思わざるを得ません。日本のトップの大臣がこのような発言をするとは・・・失望しました。
その他にも、政治の話ですがちょっと前になりますが、「レイプする人のほうが元気がよくていい。」とか、???????????な発言。ま〜この発言は不適切だったとなり発言を撤回しましたが、上述の鴻池大臣の事例は、発言はしないと入ったが、撤回しない様子。まったくあきれてものが言えません。
しかも、長崎の事件に関して言えば携帯電話で少年の顔写真が出回っていたり、さらには2チャンネルでは個人情報も流通しているらしいです。2チャンネルに関しては、法務省が削除を勧告したそうですが、面白がってこういうことをするのもなんかげせないですよね。現に人が1人亡くなっているのです。このあたりをもう少し考えるような心はないのでしょうか。ただただ面白がっているだけな気が・・・こういういわゆる人権侵害というのもよくないですよね。加害者そして被害者感情を汲み取っていないような気が。
被害者感情といえば、最近ニッシーがちょっと注目しているニュースでこんなのがあります。
なにやら、福井県の交通死亡事故の裁判で、被害者の遺族が喪服や黒い服を着て傍聴したため、裁判官が「被告に心理的影響を与える可能性がある」として公判を中断し、延期していたそうです。今まで、遺影の持込は許可されていたそうですが、喪服での出席は禁止したそうで、遺族側は「遺族の気持ちを逆なでするようでおかしい」と憤っているそうですが、これも裁判のあり方で議論が持ち上がりそうです。
私は、この裁判官の判断は適切であったと思います。なぜなら、裁判というのはあくまでも中立な立場で行わなければならないからです。そこで、喪服といった明らかに被害者有利なものをつきつけられたら、どうでしょう?被告側の精神状態というのが混乱してしまうのではないかと思います。そして、いくら被害者だからといっても被害者にも人権はあるわけであり、なおかつ裁判というのは、憲法に「裁判官は、法律と良心によって守られる。」ときちんと明記しております。
それと、交通事故関係では私はいつも言うのですが、このような事故で喪服等を着ることによって被害者に誠意を求めることは、「八百屋に行ってさんまを買うようなもの」なのです。被害者への処罰は、きちんと裁判所というところが行ってくれます。なので、遺族には申し訳ないのですけど、私は喪服で裁判出席はちょっと・・・と思い、裁判長の判断に同意します。
それと、交通事故関連に限って言うと交通事故っていうのは被害者側に立った、団体やインターネット上でのサイトなどは結構あるのですが、加害者側も考慮したいわゆる『中立的な』団体、インターネットサイトはほとんどないと思います。(今のところ私の知っているインターネットサイトは交通事故関連でまったくの中立的なところは1つ知っています。)
交通事故に限らず、日本では被害者側が非常に強い風潮があると思います。もちろん、被害者の気持ちは大変よく分かりますし、責めるつもりもないのですが、その気持ちが過度になってさまざまなことを考えてください。と私は言いたいです。
なんか話がそれてしまいましたが、最近いやなそして、腹の立つニュースが続いています。最近の(いわゆる決まり文句ですが。 (^_^.))日本はなんかおかしいですね。いまだ減らない少年犯罪や、世の政治家たちの不謹慎さ。一体何を信じていけばいいのか分からなくなってきています。
だからこそ、自分を耕すことが大切だと思います。それには色々な方法があると思いますが、普段の生活とはちょっと変わったことをやって、その中でまた自分というものを探していく。そんなことをしたいですね。
大学4年生、大学時代最後の夏休みがニッシーはゼミの関係上来週になっています。
この夏、どこか旅にでかかる予定です。結局海外はだめになってしまったので・・・国内のどこかに行きたいなと思っています。国内でも素晴らしいところはたくさんあります。もっと自分を磨いていきたいと。そんな風に思っています。
いや〜なんか、最近日本全国いやなニュースが続いていますが・・・その裏で世の中の大人たちが不謹慎な発言を連発。
何ですか?「親は市中引き回しのうえ打ち首にすればいい」鴻池大臣。あなた、何を言っているんですか!確かに、この少年を犯してしまったことはひどいことだと思います。しかし、この少年の両親は一体どんな気持ちで毎日を迎えているのか?そういうのを考えているのですか?私は大臣のことを詳しく存じ上げませんが、まったく持って不謹慎な発言だと思わざるを得ません。日本のトップの大臣がこのような発言をするとは・・・失望しました。
その他にも、政治の話ですがちょっと前になりますが、「レイプする人のほうが元気がよくていい。」とか、???????????な発言。ま〜この発言は不適切だったとなり発言を撤回しましたが、上述の鴻池大臣の事例は、発言はしないと入ったが、撤回しない様子。まったくあきれてものが言えません。
しかも、長崎の事件に関して言えば携帯電話で少年の顔写真が出回っていたり、さらには2チャンネルでは個人情報も流通しているらしいです。2チャンネルに関しては、法務省が削除を勧告したそうですが、面白がってこういうことをするのもなんかげせないですよね。現に人が1人亡くなっているのです。このあたりをもう少し考えるような心はないのでしょうか。ただただ面白がっているだけな気が・・・こういういわゆる人権侵害というのもよくないですよね。加害者そして被害者感情を汲み取っていないような気が。
被害者感情といえば、最近ニッシーがちょっと注目しているニュースでこんなのがあります。
なにやら、福井県の交通死亡事故の裁判で、被害者の遺族が喪服や黒い服を着て傍聴したため、裁判官が「被告に心理的影響を与える可能性がある」として公判を中断し、延期していたそうです。今まで、遺影の持込は許可されていたそうですが、喪服での出席は禁止したそうで、遺族側は「遺族の気持ちを逆なでするようでおかしい」と憤っているそうですが、これも裁判のあり方で議論が持ち上がりそうです。
私は、この裁判官の判断は適切であったと思います。なぜなら、裁判というのはあくまでも中立な立場で行わなければならないからです。そこで、喪服といった明らかに被害者有利なものをつきつけられたら、どうでしょう?被告側の精神状態というのが混乱してしまうのではないかと思います。そして、いくら被害者だからといっても被害者にも人権はあるわけであり、なおかつ裁判というのは、憲法に「裁判官は、法律と良心によって守られる。」ときちんと明記しております。
それと、交通事故関係では私はいつも言うのですが、このような事故で喪服等を着ることによって被害者に誠意を求めることは、「八百屋に行ってさんまを買うようなもの」なのです。被害者への処罰は、きちんと裁判所というところが行ってくれます。なので、遺族には申し訳ないのですけど、私は喪服で裁判出席はちょっと・・・と思い、裁判長の判断に同意します。
それと、交通事故関連に限って言うと交通事故っていうのは被害者側に立った、団体やインターネット上でのサイトなどは結構あるのですが、加害者側も考慮したいわゆる『中立的な』団体、インターネットサイトはほとんどないと思います。(今のところ私の知っているインターネットサイトは交通事故関連でまったくの中立的なところは1つ知っています。)
交通事故に限らず、日本では被害者側が非常に強い風潮があると思います。もちろん、被害者の気持ちは大変よく分かりますし、責めるつもりもないのですが、その気持ちが過度になってさまざまなことを考えてください。と私は言いたいです。
なんか話がそれてしまいましたが、最近いやなそして、腹の立つニュースが続いています。最近の(いわゆる決まり文句ですが。 (^_^.))日本はなんかおかしいですね。いまだ減らない少年犯罪や、世の政治家たちの不謹慎さ。一体何を信じていけばいいのか分からなくなってきています。
だからこそ、自分を耕すことが大切だと思います。それには色々な方法があると思いますが、普段の生活とはちょっと変わったことをやって、その中でまた自分というものを探していく。そんなことをしたいですね。
大学4年生、大学時代最後の夏休みがニッシーはゼミの関係上来週になっています。
この夏、どこか旅にでかかる予定です。結局海外はだめになってしまったので・・・国内のどこかに行きたいなと思っています。国内でも素晴らしいところはたくさんあります。もっと自分を磨いていきたいと。そんな風に思っています。
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かもしれない運転
2003年7月1日本日午後2時30分ごろのことです。私が大学生協内にいたとき、外で車のクラクションがなりました。
私の通っている大学は、構内は交通ルールなどはっきりいって無法状態。特に生協前は、道路上にはたくさんの自転車や学生たちでごった返しています。なので、まぁ〜この運転手も危ないという意味を込めてクラクションを鳴らしたものだと思うのです。
ところが、その後その車の運転手が突然車を止め降りてきて、クラクションを鳴らした対象の女子学生2人に対して、「危ないじゃないか!ひくところだったぞ。ぶつかってしまうではないか。」と女子学生2人に対してすごい剣幕で怒り出しました。該当の女子学生は自分が何で怒られているのかよくわかっていない状況で、「すいません。」とは言いましたが、その後「何で怒られなきゃいけないの。」と首を傾げていました。さらに、周りでその様子を見ていたほかの学生も「何で怒ってるの?」と少々疑問気味の様子でした。
私はその様子を一部始終見ていたわけではないので、状況はわかりかねますが私も少々このドライバーの怒りにははなはだ疑問を感じます。また、そのドライバー車をよく見たら通年入校許可証を携帯していました。おそらく大学教授か職員の人だったのでしょう。
私は同じドライバーとしてこのドライバーのとった行動はおかしいと思います。確かに歩行者にも責任はあるとは思いますが、この対処だと大学内に入ってくるすべての車のドライバーが学生に対して、怒り出してしまうことになるからです。
確かに、大学内の交通ルールやマナーは決していいものとはいえません。特に昼休みのときは、学生が道路を占拠して車はほとんど通れないという状況もしばしばです。しかしながら、それが大学内の現状なのです。そして、日本の法律では歩行者が最優先されるはずです。もちろん、いきなり歩行者が飛び出してきて、それで接触しそうになったとしたらドライバーがとっさにでてきて、「あぶね〜じゃねいか!」と歩行者に対して、罵声を浴びせることはわからなくもないですが、本件の場合そのような状況ではなく、この女子学生2人は普通に道路上を歩いていただけだと思われます。
しかも、このドライバーはおそらく大学職員もしくは教授です。このような状況は日常茶飯事で見てきているはずです。だからこそ、大学内の交通事情はよく知っているわけで、逆に「気をつけて運転しよう」という気持ちになるのではないでしょうか。私も、たまに大学内を車で走行することがありますが、大学内の交通事情の悪さには甚だあきれております。しかしながら、それが現状と思い、大学内ではとにかく安全運転を心がけています。
つまり、大学内においては歩行者が多数いるので、構内を走るドライバーは、特に安全運転をしようと思うはずなのです。それなのに、このドライバーは自分勝手に自分の思うように行かなかっただけで、その責任を女子学生に転嫁するのはひどいと感じます。
また、この人は怒りの矛先が違っています。もしも大学内の交通事情について疑問に感じているのなら、女子学生ではなくて大学側にそのことを訴えるべきです。そのような行動をはたしてこのドライバーはしているのでしょうか。おそらくしていないでしょう。自分勝手なドライバーの典型的な例だと思います。しかもそれが内部の人だとは・・・甚だあきれてしまいます。
近頃、交通事故が増加しています。これは一概にドライバーにだけでなく歩行者にも責任がある。これは事実です。私もドライバーなのでよくわかります。しかしながら、なんだかんだいって、事故が起こったらやはり車が悪者になってしまいます。このドライバーも○○だろう運転ではなくて、○○かもしれない運転をぜひとも実践してほしいものです。事故はいつ何時やってくるかわかりません。そうすれば、無駄な労力など要せずにすむわけです。
そして、歩行者や自転車もしっかりと交通ルールやマナーを守って行動する。双方の注意が必要だと思います。
今回のように一方的に怒るというのは私は甚だどうかと感じました。また、このような事例で女子学生に誠意を求めるのは私は、「八百屋に行ってさんまを買おうとするようなこと」だと思います。
つまり、怒りの矛先を女子学生に向けるのではなく、どうしたら安全運転ができるのか。どのように運転したら安全なのか。こちらを考えるべきではないかと。身内の人ならなおさらです。大学内の状況はわかっているわけですから・・・
私の通っている大学は、構内は交通ルールなどはっきりいって無法状態。特に生協前は、道路上にはたくさんの自転車や学生たちでごった返しています。なので、まぁ〜この運転手も危ないという意味を込めてクラクションを鳴らしたものだと思うのです。
ところが、その後その車の運転手が突然車を止め降りてきて、クラクションを鳴らした対象の女子学生2人に対して、「危ないじゃないか!ひくところだったぞ。ぶつかってしまうではないか。」と女子学生2人に対してすごい剣幕で怒り出しました。該当の女子学生は自分が何で怒られているのかよくわかっていない状況で、「すいません。」とは言いましたが、その後「何で怒られなきゃいけないの。」と首を傾げていました。さらに、周りでその様子を見ていたほかの学生も「何で怒ってるの?」と少々疑問気味の様子でした。
私はその様子を一部始終見ていたわけではないので、状況はわかりかねますが私も少々このドライバーの怒りにははなはだ疑問を感じます。また、そのドライバー車をよく見たら通年入校許可証を携帯していました。おそらく大学教授か職員の人だったのでしょう。
私は同じドライバーとしてこのドライバーのとった行動はおかしいと思います。確かに歩行者にも責任はあるとは思いますが、この対処だと大学内に入ってくるすべての車のドライバーが学生に対して、怒り出してしまうことになるからです。
確かに、大学内の交通ルールやマナーは決していいものとはいえません。特に昼休みのときは、学生が道路を占拠して車はほとんど通れないという状況もしばしばです。しかしながら、それが大学内の現状なのです。そして、日本の法律では歩行者が最優先されるはずです。もちろん、いきなり歩行者が飛び出してきて、それで接触しそうになったとしたらドライバーがとっさにでてきて、「あぶね〜じゃねいか!」と歩行者に対して、罵声を浴びせることはわからなくもないですが、本件の場合そのような状況ではなく、この女子学生2人は普通に道路上を歩いていただけだと思われます。
しかも、このドライバーはおそらく大学職員もしくは教授です。このような状況は日常茶飯事で見てきているはずです。だからこそ、大学内の交通事情はよく知っているわけで、逆に「気をつけて運転しよう」という気持ちになるのではないでしょうか。私も、たまに大学内を車で走行することがありますが、大学内の交通事情の悪さには甚だあきれております。しかしながら、それが現状と思い、大学内ではとにかく安全運転を心がけています。
つまり、大学内においては歩行者が多数いるので、構内を走るドライバーは、特に安全運転をしようと思うはずなのです。それなのに、このドライバーは自分勝手に自分の思うように行かなかっただけで、その責任を女子学生に転嫁するのはひどいと感じます。
また、この人は怒りの矛先が違っています。もしも大学内の交通事情について疑問に感じているのなら、女子学生ではなくて大学側にそのことを訴えるべきです。そのような行動をはたしてこのドライバーはしているのでしょうか。おそらくしていないでしょう。自分勝手なドライバーの典型的な例だと思います。しかもそれが内部の人だとは・・・甚だあきれてしまいます。
近頃、交通事故が増加しています。これは一概にドライバーにだけでなく歩行者にも責任がある。これは事実です。私もドライバーなのでよくわかります。しかしながら、なんだかんだいって、事故が起こったらやはり車が悪者になってしまいます。このドライバーも○○だろう運転ではなくて、○○かもしれない運転をぜひとも実践してほしいものです。事故はいつ何時やってくるかわかりません。そうすれば、無駄な労力など要せずにすむわけです。
そして、歩行者や自転車もしっかりと交通ルールやマナーを守って行動する。双方の注意が必要だと思います。
今回のように一方的に怒るというのは私は甚だどうかと感じました。また、このような事例で女子学生に誠意を求めるのは私は、「八百屋に行ってさんまを買おうとするようなこと」だと思います。
つまり、怒りの矛先を女子学生に向けるのではなく、どうしたら安全運転ができるのか。どのように運転したら安全なのか。こちらを考えるべきではないかと。身内の人ならなおさらです。大学内の状況はわかっているわけですから・・・
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1ヶ月が過ぎて
2003年5月13日大学4年生になって1ヶ月が過ぎた。ニッシーが大学に入学したのが2000年、現住所を千葉県小見川町から現在の茨城県水戸市に引越ししてもう4年たった。時がたつのは非常に早い。
大学に入学した当時は、1〜2年で教養科目をたくさんとって、3〜4年で楽をする!なんて、豪語していた。実際に今の授業は卒業研究しか履修していない。それなので「じゃ〜研究に没頭できるんだ!」なんて思っていたのだが、10代後半に大学に入学し、今や20代前半・・・研究に果たして没頭しているんだろうか?ちょっと疑問を持った。
現にこの日記も、明日のゼミの発表の合間に書いている。その前日はすしやのバイトだった。最近のすしやは、とにかく忙しい。お店が変わって新しいすしやになったのだが、今までの雰囲気とちょっと違う。そんなのに少し動揺されつつも、今はあるバイト中は『無』になって仕事をしています。お金がたくさん入るのでそういう意味ではいいのかもしれないけど、自分的にはお金以外にも、アルバイトに求めているものというのがあるわけであって、以前のお店はそのようなものがあった。しかし、今はなくなっている。『無』になってアルバイトをしているのもその現われだと思う。実際に、最近は家に帰るのが1:00を回るなんてことも珍しくなくなってきた。それでもってあまり会話もない。なんか、以前のお店と変わってしまったな〜。と感じている。アルバイトは週2〜3回やっている。
ベトナム語勉強会というのにも参加している。火曜日の3時間目にベトナムに行ってきたメンバーで、大学に来ているベトナム人留学生を先生に勉強している。今までずっと異国語と言えば英語を勉強してきたが、今回ベトナムに行ったことで、ベトナム語を勉強して、来年の春もう1回ベトナムに行く予定である。当たり前のことなのだが、異国語の言語を学ぶことはなかなか大変である。しかし、みんなすごい積極的でニッシーも何とかくらいついているって感じだ。そんなこともやっている。
そしてもちろんゼミもやっている。ゼミは木曜日の午後から大体4時間くらい。発表者が決まっていて、その発表者が発表日にゼミのメンバーに発表するという形だ。ニッシーは今週が発表者。勉強をしているのだが、今週は今までになく難しい・・・きちんと発表できるかどうか不安だが、とりあえずがんばってみようと思う。ゼミの跡は最近は毎週のように大学院生と一緒に先生の家でお酒を飲んでいる。最近の飲酒は、最低でも月1回になっている。そのほかにも飲んでいたりもするのでつきに8回くらいは飲んでいる。それだけ何か思うところがあるのかな〜?そうやって自分を振り返るとなんか人間って何なんだろう?とか思っていたりもしている。
毎週末には自分の趣味の野球の審判もやっている。今年で7年目だが、ますます面白いと感じてきている。今は、軟式野球連盟と千葉審判協会というところ2つに所属している。はっきりいって千葉審判協会のほうが、審判としては面白い。毎回毎回いろいろと新しい発見がある。こうやって考えると軟式野球連盟はつくづく進歩がないな〜と感じてしまう。でも、去年はアメリカマイナーリーグ審判員による講習会にも参加したし、そういう意味では自分の審判に対する興味も7年目を迎え、ますます高まっている。発展がないと進歩はないと思う。現状で満足しているようでは、いつかはだめになる。まぁ〜どちらにしても軟式野球連盟、千葉審判協会試合終了後に自分の中に思うところがあるということは、それなりには向上心はあると自分で思っている。もっともっと試合をして経験をつみたい。
とまぁ〜こうやって今時分のやっていることを書いてみるだけでもこんなにもあるのだと自分で驚いている。そのほかにもベトナム人とメールでのやり取りをしていたり、最近は近隣の講演会とやらにも参加するようになって来た。金曜日にも県立図書館での講演会に参加予定である。
また、自分の趣味でいえば、千葉ロッテマリーンズの応援をしに野球場へいくこと。4月は2回行ってきた。だんだんと忙しくなってきたので5月は、何回いけるのだろう?とちょっと不安だが、それでも最低月に1回は行きたいと思っている。ただ、主に行く野球場は千葉マリンスタジアムになってしまうので、それなりにスケジュールに余裕がないといけない状態である。また、今年はサッカー観戦もやってみようかなと思っている。また、本もたくさん読みたいと思っている。
今年で22歳になった。学校というところに通うようになって16年目。学校を変えつつもこうやって色々なことができるのも学生の特権だと思うし、もう少し自分を充実しつつ、学生という自由の中で暮らしてみようかな?と現在思っていることころである。この雑踏の中にもまれないように。4年生になって1ヶ月。こんなことを感じながら、日々をすごしている。
自分の中の答えはまだまだ遠いようだ。
大学に入学した当時は、1〜2年で教養科目をたくさんとって、3〜4年で楽をする!なんて、豪語していた。実際に今の授業は卒業研究しか履修していない。それなので「じゃ〜研究に没頭できるんだ!」なんて思っていたのだが、10代後半に大学に入学し、今や20代前半・・・研究に果たして没頭しているんだろうか?ちょっと疑問を持った。
現にこの日記も、明日のゼミの発表の合間に書いている。その前日はすしやのバイトだった。最近のすしやは、とにかく忙しい。お店が変わって新しいすしやになったのだが、今までの雰囲気とちょっと違う。そんなのに少し動揺されつつも、今はあるバイト中は『無』になって仕事をしています。お金がたくさん入るのでそういう意味ではいいのかもしれないけど、自分的にはお金以外にも、アルバイトに求めているものというのがあるわけであって、以前のお店はそのようなものがあった。しかし、今はなくなっている。『無』になってアルバイトをしているのもその現われだと思う。実際に、最近は家に帰るのが1:00を回るなんてことも珍しくなくなってきた。それでもってあまり会話もない。なんか、以前のお店と変わってしまったな〜。と感じている。アルバイトは週2〜3回やっている。
ベトナム語勉強会というのにも参加している。火曜日の3時間目にベトナムに行ってきたメンバーで、大学に来ているベトナム人留学生を先生に勉強している。今までずっと異国語と言えば英語を勉強してきたが、今回ベトナムに行ったことで、ベトナム語を勉強して、来年の春もう1回ベトナムに行く予定である。当たり前のことなのだが、異国語の言語を学ぶことはなかなか大変である。しかし、みんなすごい積極的でニッシーも何とかくらいついているって感じだ。そんなこともやっている。
そしてもちろんゼミもやっている。ゼミは木曜日の午後から大体4時間くらい。発表者が決まっていて、その発表者が発表日にゼミのメンバーに発表するという形だ。ニッシーは今週が発表者。勉強をしているのだが、今週は今までになく難しい・・・きちんと発表できるかどうか不安だが、とりあえずがんばってみようと思う。ゼミの跡は最近は毎週のように大学院生と一緒に先生の家でお酒を飲んでいる。最近の飲酒は、最低でも月1回になっている。そのほかにも飲んでいたりもするのでつきに8回くらいは飲んでいる。それだけ何か思うところがあるのかな〜?そうやって自分を振り返るとなんか人間って何なんだろう?とか思っていたりもしている。
毎週末には自分の趣味の野球の審判もやっている。今年で7年目だが、ますます面白いと感じてきている。今は、軟式野球連盟と千葉審判協会というところ2つに所属している。はっきりいって千葉審判協会のほうが、審判としては面白い。毎回毎回いろいろと新しい発見がある。こうやって考えると軟式野球連盟はつくづく進歩がないな〜と感じてしまう。でも、去年はアメリカマイナーリーグ審判員による講習会にも参加したし、そういう意味では自分の審判に対する興味も7年目を迎え、ますます高まっている。発展がないと進歩はないと思う。現状で満足しているようでは、いつかはだめになる。まぁ〜どちらにしても軟式野球連盟、千葉審判協会試合終了後に自分の中に思うところがあるということは、それなりには向上心はあると自分で思っている。もっともっと試合をして経験をつみたい。
とまぁ〜こうやって今時分のやっていることを書いてみるだけでもこんなにもあるのだと自分で驚いている。そのほかにもベトナム人とメールでのやり取りをしていたり、最近は近隣の講演会とやらにも参加するようになって来た。金曜日にも県立図書館での講演会に参加予定である。
また、自分の趣味でいえば、千葉ロッテマリーンズの応援をしに野球場へいくこと。4月は2回行ってきた。だんだんと忙しくなってきたので5月は、何回いけるのだろう?とちょっと不安だが、それでも最低月に1回は行きたいと思っている。ただ、主に行く野球場は千葉マリンスタジアムになってしまうので、それなりにスケジュールに余裕がないといけない状態である。また、今年はサッカー観戦もやってみようかなと思っている。また、本もたくさん読みたいと思っている。
今年で22歳になった。学校というところに通うようになって16年目。学校を変えつつもこうやって色々なことができるのも学生の特権だと思うし、もう少し自分を充実しつつ、学生という自由の中で暮らしてみようかな?と現在思っていることころである。この雑踏の中にもまれないように。4年生になって1ヶ月。こんなことを感じながら、日々をすごしている。
自分の中の答えはまだまだ遠いようだ。
これは斜めっていません。普通のエッセイです。
2003年4月9日先日5日、東京でネット上の友達7人と会ってきた。こういう経験は実は今回で2回目である。簡単に言ってしまえば『仮面武道会』皆がみな会ったことはない。ネット上で文章のやり取りはしているけど、実際には会っていない。つまり、初めて会ったわけだ。正直言って少々不安だった。でも、実際に振り返ってみて正直行ってよかったと思った。
そして、いってよかったと思ったのと同時に自分について色々と考えさせられた。皆、それぞれ自分のカテゴリーを持ち、日々の生活を送っているなと。
自分はどうだ?自分に問いたくなった。一体日々をどんな風にすごしているのだ?自分が子供に見えた。『大人』になりたい。それにはそれなりの経験が必要だ。自分は、はっきりいって経験というものがない。いや、経験がないというか今までそういった道を避けてきたのだと思う。
以前友人にこんなことを言われたことがあった。「君は今まで争いは避けて通るタイプじゃなかったか?」あの時ははっきりいってそんなにその人の言っている意味が分からなかった。また、高校時代からだろうか、親・先生によく「本を読みなさい」と言われた。「読書なんて面倒くさい。」自分の正直な気持ちだった。でも、今になってあの時あの人に言われた言葉の意味、本を読むことの大切さ。だんだんと分かってきた気がする。
ベトナム旅行、そして今回のオフ会と自分のレンズの小ささが。楽なほうへ、つまり自分はまだ子供だった。自分の好きなことしかやらない。楽なほうへ走っていた。自分とは考え方を違う人を嫌なやつと思っていた。でも、それが今になってやっと分かってきた。
楽しいことをやっている時、好きなことをやっている時、自分の思い通りになっている時は本当に楽しい。好きでやっているんだから。その逆の道はというと・・・逆の道ははっきり言って逃げてきた。おかげで、今の視野の狭い自分が今ここにいる。そんな自分が今の自分なのだ。何て、ちっぽけな自分なんだろう。そんな自分に腹がたつ。まず、何にしろ事実を知らなさすぎた。事実、経験、感情何に対してもまだまだ未熟だ。
はっきりいってこのことに気づくのが遅すぎた。もう21歳。4月27日で22歳になる。自分は人間失格だ。こんな年になるまで気づかないとは・・・
自分は今までずっといい子を演じてきたのだと思う。だから、マイナスのほうに気づかなかった。ベトナム旅行で感じたあれこれ、今回のオフ会での皆の話。皆ものすごく生き生きとそして立派に見えた。皆自分と言う集合を全うしていた。
もう21の自分にこれから変わる機会はないのだろうか?今からでも人間って変われるものなのだろうか?出来るはずだ。もう21だが、まだ21という考え方もできる。それには経験という媒体が必要。全てを経験するのは今からじゃ無理かもしれない。だったら疑似体験でも良い。「本を読む」「映画を見る」こういうことでも良いと思う。終わったあとに何か残るものがあるとするなら。
そうやって自分の中の顕微鏡をもっともっと広げていきたい。自分が大人になるために。顕微鏡をプレゼントしよう。自分で自分の22歳の誕生日に。
【東京〜鹿島神宮のバスの中で】
そして、いってよかったと思ったのと同時に自分について色々と考えさせられた。皆、それぞれ自分のカテゴリーを持ち、日々の生活を送っているなと。
自分はどうだ?自分に問いたくなった。一体日々をどんな風にすごしているのだ?自分が子供に見えた。『大人』になりたい。それにはそれなりの経験が必要だ。自分は、はっきりいって経験というものがない。いや、経験がないというか今までそういった道を避けてきたのだと思う。
以前友人にこんなことを言われたことがあった。「君は今まで争いは避けて通るタイプじゃなかったか?」あの時ははっきりいってそんなにその人の言っている意味が分からなかった。また、高校時代からだろうか、親・先生によく「本を読みなさい」と言われた。「読書なんて面倒くさい。」自分の正直な気持ちだった。でも、今になってあの時あの人に言われた言葉の意味、本を読むことの大切さ。だんだんと分かってきた気がする。
ベトナム旅行、そして今回のオフ会と自分のレンズの小ささが。楽なほうへ、つまり自分はまだ子供だった。自分の好きなことしかやらない。楽なほうへ走っていた。自分とは考え方を違う人を嫌なやつと思っていた。でも、それが今になってやっと分かってきた。
楽しいことをやっている時、好きなことをやっている時、自分の思い通りになっている時は本当に楽しい。好きでやっているんだから。その逆の道はというと・・・逆の道ははっきり言って逃げてきた。おかげで、今の視野の狭い自分が今ここにいる。そんな自分が今の自分なのだ。何て、ちっぽけな自分なんだろう。そんな自分に腹がたつ。まず、何にしろ事実を知らなさすぎた。事実、経験、感情何に対してもまだまだ未熟だ。
はっきりいってこのことに気づくのが遅すぎた。もう21歳。4月27日で22歳になる。自分は人間失格だ。こんな年になるまで気づかないとは・・・
自分は今までずっといい子を演じてきたのだと思う。だから、マイナスのほうに気づかなかった。ベトナム旅行で感じたあれこれ、今回のオフ会での皆の話。皆ものすごく生き生きとそして立派に見えた。皆自分と言う集合を全うしていた。
もう21の自分にこれから変わる機会はないのだろうか?今からでも人間って変われるものなのだろうか?出来るはずだ。もう21だが、まだ21という考え方もできる。それには経験という媒体が必要。全てを経験するのは今からじゃ無理かもしれない。だったら疑似体験でも良い。「本を読む」「映画を見る」こういうことでも良いと思う。終わったあとに何か残るものがあるとするなら。
そうやって自分の中の顕微鏡をもっともっと広げていきたい。自分が大人になるために。顕微鏡をプレゼントしよう。自分で自分の22歳の誕生日に。
【東京〜鹿島神宮のバスの中で】
日本とアメリカ
2003年4月7日4月8日の朝日新聞スポーツ面に面白い記事がのっていた。『岩崎恭子さんLAでコーチ留学』という記事である。
岩崎恭子さんについては、以前にもニッシーのホームページ上の中で紹介したことがあった。確か以前はスポーツ選手についてのエッセイか何かで、岩崎恭子さんが普通の人だった、プロ選手にはそれ以上の何かがあるみたいなことを書いた覚えがある。
今回ニッシーが注目したのは岩崎恭子さんの言葉のところである。今回岩崎さんは、日本オリンピック委員会のスポーツ指導者海外研修員制度を利用してアメリカで指導するそうだが、彼女自身5歳から水泳を始めて、14歳で泳ぎの頂点を極めてしまった人である。バルセロナオリンピックの「今まで生きていた中で一番幸せです。」という彼女の言葉を覚えている人は多いだろう。
しかし、彼女は高校生のころあたりからプールに立つことは少なくなっていった。人としての何かが出てきた。かつて、ニッシー彼女が大学生時代のことをエッセイにして書いたことがあったが、「今、一番大変なのは卒論です。」といったのが非常に印象的だった。彼女は普通の人になったのだ。それが、彼女にとっての居場所だったのかもしれない。
彼女は、アメリカと日本の指導スタイルの違いをこう語っている。「例えば、日本では早く泳いでもらおうと、だめなところを直していきます。しかし、こちら(アメリカ)はいい所をしっかりほめます。」最後に、ほめてばかりではだめです。とは書いてあるが、ニッシーも自分が審判をやっていてアメリカ式のことを取り入れていることもあり、非常に共感できるところが多い。
これは水泳だけに限ったことではない。日本でのスポーツ指導そのほか、いわゆる経験者・先輩が指導するとき、指導する全般について成り立つと思う。日本人は、悪いところを直そう直そうと思って悪いところを指摘して行く指導者が多い。確かに、この方法は自分の悪いところが分かって一見良いように見えるかもしれないが、ずっとこの日本式の指導だと自らも経験があるのだが、どこがいいのかがわからない。結局自分がなんだか分からなくなってしまう。皆さんもそんな経験がないだろうか。
現にニッシーも野球の審判の例を1つとってみても全日本軟式野球連盟でやっているほうは、指導を受けるのだが、大体は悪いところの指摘。良いところは言ってくれないことが多いです。最近はそんなことも徐々になくなってきてはいますが、それでもまだまだそういう指摘が多いですね。結局どうすればいいのか分からない時期もありました。
そうではなくて、アメリカの指導ではこれは野球の審判の指導法に関しても言えることなのだが、アメリカというのはいいところを伸ばそう!伸ばそう!という考え方なので、とにかく良いと思ったところはほめる。ほめて伸ばすという考え方なのだ。人間ほめられると嫌になる人は少ないと思うし、また自分のやる気にもつながり、もっとがんばろう!という気持ちになると思う。現に、ニッシーもほめられると嫌な気はしないし、うれしくなる。
もちろんアメリカがすべてという気もないし、時には悪いところを指摘することも必要だろう。ただ、日本人は島国根性見たいのがあってどうしても前者に走ってしまう。これではマイナスの方向に向かう人も出てくると思う。現に、ニッシーの友達にでも「練習が辛いからやめた。」と言ってスポーツをやめてしまう人もいる。また、「指導者との相性があわない」という人もいる。全てが全てではないだろうが、こういうのってどこかに指導者の指導法みたいなのが少なからずともかかわってきているのではないかと考える。
本当に好きならば、たとえ練習が辛くても乗り越えられるはずだし、指導者と相性が合わなかったとしても地道に努力することとか可能になると思う。それができないということは、やっぱりどこかに指導法というのが絡んでくると思われる。
最後に岩崎さんはこう言っている。「水泳をしているから、何かで頑張れる。何かのきっかけになってもらえればいいと思うのです。私がそうだったように。」彼女も高校時代・大学時代非常に進路について悩んだそうだ。水泳をやめてしまいたいと思ったこともあったと聞く。でも、そこで彼女を思いとどまさせたのは、やはり水泳だったと思う。すきであるということ。これは非常に大切なこと。技術云々の前に。
そして、指導者にはこの好きだという気持ちをうまく伸ばしてあげられるような指導をすることが大切だ。悪いところを直そう、直そうではなくいいところを伸ばそう伸ばそうと、いう指導法。日本でももっととりいれてほしい。
岩崎さんからニッシーが学ぶところは多いです。これからも頑張ってください。
岩崎恭子さんについては、以前にもニッシーのホームページ上の中で紹介したことがあった。確か以前はスポーツ選手についてのエッセイか何かで、岩崎恭子さんが普通の人だった、プロ選手にはそれ以上の何かがあるみたいなことを書いた覚えがある。
今回ニッシーが注目したのは岩崎恭子さんの言葉のところである。今回岩崎さんは、日本オリンピック委員会のスポーツ指導者海外研修員制度を利用してアメリカで指導するそうだが、彼女自身5歳から水泳を始めて、14歳で泳ぎの頂点を極めてしまった人である。バルセロナオリンピックの「今まで生きていた中で一番幸せです。」という彼女の言葉を覚えている人は多いだろう。
しかし、彼女は高校生のころあたりからプールに立つことは少なくなっていった。人としての何かが出てきた。かつて、ニッシー彼女が大学生時代のことをエッセイにして書いたことがあったが、「今、一番大変なのは卒論です。」といったのが非常に印象的だった。彼女は普通の人になったのだ。それが、彼女にとっての居場所だったのかもしれない。
彼女は、アメリカと日本の指導スタイルの違いをこう語っている。「例えば、日本では早く泳いでもらおうと、だめなところを直していきます。しかし、こちら(アメリカ)はいい所をしっかりほめます。」最後に、ほめてばかりではだめです。とは書いてあるが、ニッシーも自分が審判をやっていてアメリカ式のことを取り入れていることもあり、非常に共感できるところが多い。
これは水泳だけに限ったことではない。日本でのスポーツ指導そのほか、いわゆる経験者・先輩が指導するとき、指導する全般について成り立つと思う。日本人は、悪いところを直そう直そうと思って悪いところを指摘して行く指導者が多い。確かに、この方法は自分の悪いところが分かって一見良いように見えるかもしれないが、ずっとこの日本式の指導だと自らも経験があるのだが、どこがいいのかがわからない。結局自分がなんだか分からなくなってしまう。皆さんもそんな経験がないだろうか。
現にニッシーも野球の審判の例を1つとってみても全日本軟式野球連盟でやっているほうは、指導を受けるのだが、大体は悪いところの指摘。良いところは言ってくれないことが多いです。最近はそんなことも徐々になくなってきてはいますが、それでもまだまだそういう指摘が多いですね。結局どうすればいいのか分からない時期もありました。
そうではなくて、アメリカの指導ではこれは野球の審判の指導法に関しても言えることなのだが、アメリカというのはいいところを伸ばそう!伸ばそう!という考え方なので、とにかく良いと思ったところはほめる。ほめて伸ばすという考え方なのだ。人間ほめられると嫌になる人は少ないと思うし、また自分のやる気にもつながり、もっとがんばろう!という気持ちになると思う。現に、ニッシーもほめられると嫌な気はしないし、うれしくなる。
もちろんアメリカがすべてという気もないし、時には悪いところを指摘することも必要だろう。ただ、日本人は島国根性見たいのがあってどうしても前者に走ってしまう。これではマイナスの方向に向かう人も出てくると思う。現に、ニッシーの友達にでも「練習が辛いからやめた。」と言ってスポーツをやめてしまう人もいる。また、「指導者との相性があわない」という人もいる。全てが全てではないだろうが、こういうのってどこかに指導者の指導法みたいなのが少なからずともかかわってきているのではないかと考える。
本当に好きならば、たとえ練習が辛くても乗り越えられるはずだし、指導者と相性が合わなかったとしても地道に努力することとか可能になると思う。それができないということは、やっぱりどこかに指導法というのが絡んでくると思われる。
最後に岩崎さんはこう言っている。「水泳をしているから、何かで頑張れる。何かのきっかけになってもらえればいいと思うのです。私がそうだったように。」彼女も高校時代・大学時代非常に進路について悩んだそうだ。水泳をやめてしまいたいと思ったこともあったと聞く。でも、そこで彼女を思いとどまさせたのは、やはり水泳だったと思う。すきであるということ。これは非常に大切なこと。技術云々の前に。
そして、指導者にはこの好きだという気持ちをうまく伸ばしてあげられるような指導をすることが大切だ。悪いところを直そう、直そうではなくいいところを伸ばそう伸ばそうと、いう指導法。日本でももっととりいれてほしい。
岩崎さんからニッシーが学ぶところは多いです。これからも頑張ってください。
見切り発車
2003年4月4日今日から新学期が始まった。ニッシー的にはもう少し春休みでもいいよ〜といつも思っているのだが、これだけはあらかじめ日程が決まっているのだから仕方のないこと。まぁ〜早いものでニッシーも今年4年生。大学生活最後の年を満喫したいと思っている。
しかし、大学のシステムは何とかならないものなのだろうか?いつも思うのだが、大学のシステムがめちゃくちゃだ。全く、計画性なんてあったものじゃない。すべて学校側の思い通りにことがすすめられていると言わざるをえない。
毎年、学期初めの日は履修に関するガイダンスを行うのだが、もう説明がてんでこまい。はっきり言ってよく分からん。なにやら今年から「就職教育システム」とやらが出来るみたいなのだが、4年生の今になって見せられても困る!担当の先生の話だと「1年からそういうものを積み重ねて、就職に対する意識を就ける」とか言っているけど、全くもって矛盾点だらけ。
1年のときに行われる「理学部教育と就職」と言う授業では単位は出るのにそれは、卒業単位にはならない。なのに、3年で行うインターンシップ実習では卒業単位になるというこの時点ですでに矛盾。
しかも、4年間すべての家庭を履修した学生には修了書を発行するらしいのだが、この修了書、いったいなんの役に立つのか?教員免許とは違い、これをもっていないとだめみたいなものではなく、持っていても全く役に立たないと思う。就職活動をするときに修了書を見せて、「私は学生時代こんなに就職することに関して意識をつけました。」とでもアピールするのか?私はよく分からないが、企業側としては大学は本来学問の場なので、そのような知識だけ見につけても・・・と就職担当者は思うかもしれない。それに、修了書をもし発行するのであれば、実質的に就職活動が始まる3年のうちにすべての課程を終了すべきだ。4年で就職に関する課程が終わりというのはっきりいって遅すぎる。
それに単位にならないと言うのも疑問だ。就職活動は教員免許とは違い、別に単位がなくてもいいものである。にもかかわらず単位を認めるが卒業単位にならなかったり、はたまた卒業単位になったりともうわけ分からん。絶対にこのシステムおかしい。
まぁ〜もっとも去年から理学部のシステムと言うのはあまりにもおかしいところが多くて、予告なしに今年度からいきなり変わりましたっていって通知が学生にきたり、数理科学科の場合は明らかに似通った授業が同じ時間帯でかぶっていたりとはっきりいってめちゃくちゃである。担当者の話だと、今はカリキュラムの過渡期にあるので学生たちに迷惑をかけているとのことだが、こっちもお金を払って大学に来ている以上国家公務員の硬い脳みその中で勝手に変更されても困る。本当に何とかしてもらいたいものである。
やることなすことすべて見切り発車。全然システム的にしっかりしてないのに発車できることがまたよくわからない。
なにやらこの間の新聞だとうちの大学は、先ほどの国立大学審議会か何やらで結構いい評価を受けていたみたいだが、本当にそうなのだろうか?何か、国には印象はいいみたいだが実際に内部ではあからさまにおかしいことが多々起こっている。これを国家公務員の連中はどう見ているのか?
こうならないためにもニッシーは、おかしいと思ったら積極的に意見を言って考えてもらうようにするが、このままだとわけが分からないシステムのまま後々問題が起こってしまいそうだ。そうなると結局は大学側に責任が来るので困るのはあなたたちなんですよ。
もっとしっかりとしたシステム作りをしてください。お金を払ってやってきている学生のためにも。もっと有益なシステムを作ってくださいよ。
しかし、大学のシステムは何とかならないものなのだろうか?いつも思うのだが、大学のシステムがめちゃくちゃだ。全く、計画性なんてあったものじゃない。すべて学校側の思い通りにことがすすめられていると言わざるをえない。
毎年、学期初めの日は履修に関するガイダンスを行うのだが、もう説明がてんでこまい。はっきり言ってよく分からん。なにやら今年から「就職教育システム」とやらが出来るみたいなのだが、4年生の今になって見せられても困る!担当の先生の話だと「1年からそういうものを積み重ねて、就職に対する意識を就ける」とか言っているけど、全くもって矛盾点だらけ。
1年のときに行われる「理学部教育と就職」と言う授業では単位は出るのにそれは、卒業単位にはならない。なのに、3年で行うインターンシップ実習では卒業単位になるというこの時点ですでに矛盾。
しかも、4年間すべての家庭を履修した学生には修了書を発行するらしいのだが、この修了書、いったいなんの役に立つのか?教員免許とは違い、これをもっていないとだめみたいなものではなく、持っていても全く役に立たないと思う。就職活動をするときに修了書を見せて、「私は学生時代こんなに就職することに関して意識をつけました。」とでもアピールするのか?私はよく分からないが、企業側としては大学は本来学問の場なので、そのような知識だけ見につけても・・・と就職担当者は思うかもしれない。それに、修了書をもし発行するのであれば、実質的に就職活動が始まる3年のうちにすべての課程を終了すべきだ。4年で就職に関する課程が終わりというのはっきりいって遅すぎる。
それに単位にならないと言うのも疑問だ。就職活動は教員免許とは違い、別に単位がなくてもいいものである。にもかかわらず単位を認めるが卒業単位にならなかったり、はたまた卒業単位になったりともうわけ分からん。絶対にこのシステムおかしい。
まぁ〜もっとも去年から理学部のシステムと言うのはあまりにもおかしいところが多くて、予告なしに今年度からいきなり変わりましたっていって通知が学生にきたり、数理科学科の場合は明らかに似通った授業が同じ時間帯でかぶっていたりとはっきりいってめちゃくちゃである。担当者の話だと、今はカリキュラムの過渡期にあるので学生たちに迷惑をかけているとのことだが、こっちもお金を払って大学に来ている以上国家公務員の硬い脳みその中で勝手に変更されても困る。本当に何とかしてもらいたいものである。
やることなすことすべて見切り発車。全然システム的にしっかりしてないのに発車できることがまたよくわからない。
なにやらこの間の新聞だとうちの大学は、先ほどの国立大学審議会か何やらで結構いい評価を受けていたみたいだが、本当にそうなのだろうか?何か、国には印象はいいみたいだが実際に内部ではあからさまにおかしいことが多々起こっている。これを国家公務員の連中はどう見ているのか?
こうならないためにもニッシーは、おかしいと思ったら積極的に意見を言って考えてもらうようにするが、このままだとわけが分からないシステムのまま後々問題が起こってしまいそうだ。そうなると結局は大学側に責任が来るので困るのはあなたたちなんですよ。
もっとしっかりとしたシステム作りをしてください。お金を払ってやってきている学生のためにも。もっと有益なシステムを作ってくださいよ。
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日程表
2003年3月11日以下ベトナム旅行の日程です。生ニッシーを見たいという人はどうぞ。 笑
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3月13日 成田→香港 9:35発 13:40着 CX509便
香港→ハノイ15:05発 16:05着 CX791便
3月18日 ハノイ→ホーチミン(国内線)
※夕方の便で移動予定
3月23日ホーチミン→香港11:40発15:20着CX766
香港→成田 16:15発 21:05着 CX508便
-------------------------------------------
よく考えると行きは朝早いし(空港は2時間前集合が目安)、帰りは夜遅いしなんか一番大変なグループに入ってしまったな〜。(^_^.)
この旅は、学生19人と教官5人で行くので、皆さんそれぞれの日程・コースに応じてコースが違います。なかには、韓国に行く人やインドネシアに行く人たちも。(^^ゞ
ニッシーも香港によるのだったら、香港に行こうかな〜?"^_^"
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3月13日 成田→香港 9:35発 13:40着 CX509便
香港→ハノイ15:05発 16:05着 CX791便
3月18日 ハノイ→ホーチミン(国内線)
※夕方の便で移動予定
3月23日ホーチミン→香港11:40発15:20着CX766
香港→成田 16:15発 21:05着 CX508便
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よく考えると行きは朝早いし(空港は2時間前集合が目安)、帰りは夜遅いしなんか一番大変なグループに入ってしまったな〜。(^_^.)
この旅は、学生19人と教官5人で行くので、皆さんそれぞれの日程・コースに応じてコースが違います。なかには、韓国に行く人やインドネシアに行く人たちも。(^^ゞ
ニッシーも香港によるのだったら、香港に行こうかな〜?"^_^"
ベトナム行きを決意するまで!
2003年3月9日ニッシーの旅inベトナムがだんだんと迫ってきている。正直言って現在かなり不安な状態である。今回で海外に行くのは2回目。
以前は高校の修学旅行でオーストラリアにいったことがあるがそれ以来の海外だ。すでに10年用のパスポートも購入済。この際だから世界中のいろいろなところに旅行してみた。今回のベトナムをそのワンステップにしようと思っているのだ。
このベトナムの旅を知ったのが、1月終わり。ニッシーは大学の掲示板で思わぬ光景を目の当たりにした。『ベトナムで日本語を学ぶ学生と交流してみませんか』大学教授の企画であった。
この教授はベトナムとの学生の交流を積極的にやっている先生。実は2年前にも同じような企画があった。しかし、その時はサークル活動に勤しむために泣く泣く断念せざるを得なかった。
今回は、サークルも引退し、自分自身も何かたら〜んとしていたのでこの際なら!と言うことで、思い切って参加してみることにした。
参加してからというものその準備ですごく忙しくなっていった。向こうの学生との交流があるのでその準備をいろいろとしなくてはいけないのだが、それと同時にニッシーは現在ゼミ+塾と寿司屋のアルバイトをやっているのでそれを平行しての作業。すごい大変です。でもなんでだろう?なんか、大変なんだけどつらいって感じがしないのは。それだけ、自分の中で充実しているということなのかな?
ただ、これだけ忙しいので本を読む時間が取れないのが残念!ベトナム語の本とかベトナムの歴史などの資料をいろいろと見ているのですが、あまり目を通していません。(苦笑)ぎゃ〜〜〜って感じです。
木曜日にベトナムに向かって旅立ちます。期待と不安がいっぱいだらけ。でも、今は不安のほうが大きいかな?とにかく不安です。でも、これを乗り越えないと!充実した日々を送れるといいな〜。
以前は高校の修学旅行でオーストラリアにいったことがあるがそれ以来の海外だ。すでに10年用のパスポートも購入済。この際だから世界中のいろいろなところに旅行してみた。今回のベトナムをそのワンステップにしようと思っているのだ。
このベトナムの旅を知ったのが、1月終わり。ニッシーは大学の掲示板で思わぬ光景を目の当たりにした。『ベトナムで日本語を学ぶ学生と交流してみませんか』大学教授の企画であった。
この教授はベトナムとの学生の交流を積極的にやっている先生。実は2年前にも同じような企画があった。しかし、その時はサークル活動に勤しむために泣く泣く断念せざるを得なかった。
今回は、サークルも引退し、自分自身も何かたら〜んとしていたのでこの際なら!と言うことで、思い切って参加してみることにした。
参加してからというものその準備ですごく忙しくなっていった。向こうの学生との交流があるのでその準備をいろいろとしなくてはいけないのだが、それと同時にニッシーは現在ゼミ+塾と寿司屋のアルバイトをやっているのでそれを平行しての作業。すごい大変です。でもなんでだろう?なんか、大変なんだけどつらいって感じがしないのは。それだけ、自分の中で充実しているということなのかな?
ただ、これだけ忙しいので本を読む時間が取れないのが残念!ベトナム語の本とかベトナムの歴史などの資料をいろいろと見ているのですが、あまり目を通していません。(苦笑)ぎゃ〜〜〜って感じです。
木曜日にベトナムに向かって旅立ちます。期待と不安がいっぱいだらけ。でも、今は不安のほうが大きいかな?とにかく不安です。でも、これを乗り越えないと!充実した日々を送れるといいな〜。
好きなんだね〜
2003年2月8日たまにはエッセイ風の出来事の日記を書いてみる。
上松美香さん(http://www.music-amigos.co.jp/mika.htm)のアルパコンサートに行ってきた。彼女は、ニッシーと1つ違いの20歳。以前テレビで見たときに「すごい人だな〜」と思って、いつかコンサートを見に行ってみたいと思ったのだ。
それで実際にコンサートに行ってみて、アルパの魅力・奥深さ等々色々と感激したところがあったが、一番思ったことは「この人本当にアルパが好きなんだな〜♪本当に好きなんだな〜。」こう思わずにはいられなかった。
彼女は、13歳からアルパをはじめ高校1年のとき(しかも入学仕立ての頃)もう、私にはアルパしかない!と思って、高校を中退してアルパの本場南米のパラグアイに勉強に行ったそうだ。
帰国後、全日本アルパコンクールに見事優勝。CD発売と、今まさに活躍している。また、子と四月から日本での活動をお休みしてまた南米にお勉強に行くそうだ。
また、アルパと他楽器の融合も考えている彼女。アルパのよさとほかの楽器のよさをミックスして、さらにすばらしいものを作っていこうと日々躍進を続けている。ニッシーが行ったときは、琴とアルパ、ギターとアルパといった共演を見せてくれた。
コンサートを聴けば聴くほど思ってきたが、本当にアルパが好きなんだね。って感じで、アルパの魅力をめいいっぱい語ってくれた。そして、新しいことにもどんどん挑戦する彼女。なんかこれからの時代を象徴しているような感じがした。
彼女はアルパと他の楽器を融合してさらにすばらしいものを作ろうとしている。これって、今の日本に必要なことなのではないだろうか?1つのことを極めると言うのも良いだろう。それは否定はしないし、するつもりはない。ただ、その1つものとまったく違った別の分野のものとを協力して色々なことに取り組んだら1+1が2にも3にも4にもなる。良いと思ったことはどんどん取り入れる。他の分野の人の力も借りる。
こうやっていくうちに、さらに大きなものが生まれてくるのだと思う。色々な人と協力し合って大きなものを。ニッシーも最近思っていることで、自分の分野だけにこだわらずありとあらゆる分野を融合していきたい。箱の中だけでやる時代はもう終わりだ。そう思っている。
ただ、それにはもちろんその分野に関して精通していなければならないので1つのものを極めると言うのは大切になる。
つまり何をいいたいのかというと、好きなものは好きなものでそれはそれで極めて、そこから他分野との融合や、新たな発見をさまざまな角度から見つめていこうではないか!ということだ。箱の中に入るのは20世紀でおしまい。これからは21世紀。新たなものを発見しよう!ってことですな〜。
それには、まず好きだっていう気持ち。これが大切。上松さんは本当にアルパが好きだからああいうことが出来ると思う。そんなことを感じた。
上松美香さん(http://www.music-amigos.co.jp/mika.htm)のアルパコンサートに行ってきた。彼女は、ニッシーと1つ違いの20歳。以前テレビで見たときに「すごい人だな〜」と思って、いつかコンサートを見に行ってみたいと思ったのだ。
それで実際にコンサートに行ってみて、アルパの魅力・奥深さ等々色々と感激したところがあったが、一番思ったことは「この人本当にアルパが好きなんだな〜♪本当に好きなんだな〜。」こう思わずにはいられなかった。
彼女は、13歳からアルパをはじめ高校1年のとき(しかも入学仕立ての頃)もう、私にはアルパしかない!と思って、高校を中退してアルパの本場南米のパラグアイに勉強に行ったそうだ。
帰国後、全日本アルパコンクールに見事優勝。CD発売と、今まさに活躍している。また、子と四月から日本での活動をお休みしてまた南米にお勉強に行くそうだ。
また、アルパと他楽器の融合も考えている彼女。アルパのよさとほかの楽器のよさをミックスして、さらにすばらしいものを作っていこうと日々躍進を続けている。ニッシーが行ったときは、琴とアルパ、ギターとアルパといった共演を見せてくれた。
コンサートを聴けば聴くほど思ってきたが、本当にアルパが好きなんだね。って感じで、アルパの魅力をめいいっぱい語ってくれた。そして、新しいことにもどんどん挑戦する彼女。なんかこれからの時代を象徴しているような感じがした。
彼女はアルパと他の楽器を融合してさらにすばらしいものを作ろうとしている。これって、今の日本に必要なことなのではないだろうか?1つのことを極めると言うのも良いだろう。それは否定はしないし、するつもりはない。ただ、その1つものとまったく違った別の分野のものとを協力して色々なことに取り組んだら1+1が2にも3にも4にもなる。良いと思ったことはどんどん取り入れる。他の分野の人の力も借りる。
こうやっていくうちに、さらに大きなものが生まれてくるのだと思う。色々な人と協力し合って大きなものを。ニッシーも最近思っていることで、自分の分野だけにこだわらずありとあらゆる分野を融合していきたい。箱の中だけでやる時代はもう終わりだ。そう思っている。
ただ、それにはもちろんその分野に関して精通していなければならないので1つのものを極めると言うのは大切になる。
つまり何をいいたいのかというと、好きなものは好きなものでそれはそれで極めて、そこから他分野との融合や、新たな発見をさまざまな角度から見つめていこうではないか!ということだ。箱の中に入るのは20世紀でおしまい。これからは21世紀。新たなものを発見しよう!ってことですな〜。
それには、まず好きだっていう気持ち。これが大切。上松さんは本当にアルパが好きだからああいうことが出来ると思う。そんなことを感じた。
十人十色・足らないところ
2003年2月4日『十人十色』という言葉がある。辞書を引くとこう書いてある。〜好みや考えは人によってそれぞれ違うということ〜十人いたら、十人すべてが同じではない。1人1人違う考え、違う思考を持っている。
性格もそうだ。十人いれば十人とも性格は違う。社会ではそれをうまくまとめ1つの考えにしなくてはいけない。そのときには、色々な人が集まるので綿密な相談が必要だ。(基本的には)
自分の意見を他人に押し付ける人がいる。自分の意見を曲げない。自分が正しい。基本的にはそう思っているのであろう。そして、何がなんでもそっちの方向にもって行きたい。そして、その方向に進んだとき、その人はとてもいい優越感に浸る。勝ったということになる。ある意味、こういう性格も必要だ。特に物事を何か指導するときは、そういう人がいるとスムーズにことが進むし、分からない人にとっては、いい橋渡しになるということもある。
ただ、私生活にまですべてこれを持ち込むと相手に不快感を与えることになると思う。エスカレートすると、相手の意見を聞かなったり、仲間はずれにしたりと自分がまるでえらいものになったかのような印象を受ける。
前者と後者の論述は一見矛盾しているようだが、両方とも必要なこと。このバランスをうまくとれば、いい人間関係が遅れると思う。つまり、相手の気持ちを思って、みんなが気持ちよくできるようにする。そうすれば、十人十色が何人になろうと、比較的関係は維持されるだろうと思う。
ただ、そのバランスが問題で、ニッシーの場合は後者に気を使いすぎるばかりに他人への指導というのが苦手だ。何か、自分の意見を他人に押し付けるみたいで(相手の意見を聞かずに)うまく気持ちが伝わっていないのでは?と疑問符を打つ場面が多い。相手に不快感を与えるのでは?本当は怒りたいんだけど、もう少し起こらないで良い言い方があるよな?とか余計なことを考えてしまう。
逆に前者だけですべてをやってしまうと、相手に求めるものをすべて自分の枠の中で囲ってしまって、相手にとって見れば時たま不快感を与えてしまうことがある。もう少し言い方があるだろ!とか、さっきといっていること違うじゃん。とかこういうことになってしまい、相手にとって見ればあまり良い印象はうけない。
前者も後者も両方とも適度なバランスで必要。そして、何よりも大切なのは誠実さだと思う。世の中には守るべき審議上の義務というのが必然的に存在する。それが守れていれば、ある程度はトラブルは起こらないのだろうか?
最後はよく分からなくなってしまいました。結論は、世の中には色々な人がいるからそれぞれの人に足らないところがあるよな〜と言うことを言いたかったのですが・・・支離滅裂な文章ですいません。<m(__)m>
性格もそうだ。十人いれば十人とも性格は違う。社会ではそれをうまくまとめ1つの考えにしなくてはいけない。そのときには、色々な人が集まるので綿密な相談が必要だ。(基本的には)
自分の意見を他人に押し付ける人がいる。自分の意見を曲げない。自分が正しい。基本的にはそう思っているのであろう。そして、何がなんでもそっちの方向にもって行きたい。そして、その方向に進んだとき、その人はとてもいい優越感に浸る。勝ったということになる。ある意味、こういう性格も必要だ。特に物事を何か指導するときは、そういう人がいるとスムーズにことが進むし、分からない人にとっては、いい橋渡しになるということもある。
ただ、私生活にまですべてこれを持ち込むと相手に不快感を与えることになると思う。エスカレートすると、相手の意見を聞かなったり、仲間はずれにしたりと自分がまるでえらいものになったかのような印象を受ける。
前者と後者の論述は一見矛盾しているようだが、両方とも必要なこと。このバランスをうまくとれば、いい人間関係が遅れると思う。つまり、相手の気持ちを思って、みんなが気持ちよくできるようにする。そうすれば、十人十色が何人になろうと、比較的関係は維持されるだろうと思う。
ただ、そのバランスが問題で、ニッシーの場合は後者に気を使いすぎるばかりに他人への指導というのが苦手だ。何か、自分の意見を他人に押し付けるみたいで(相手の意見を聞かずに)うまく気持ちが伝わっていないのでは?と疑問符を打つ場面が多い。相手に不快感を与えるのでは?本当は怒りたいんだけど、もう少し起こらないで良い言い方があるよな?とか余計なことを考えてしまう。
逆に前者だけですべてをやってしまうと、相手に求めるものをすべて自分の枠の中で囲ってしまって、相手にとって見れば時たま不快感を与えてしまうことがある。もう少し言い方があるだろ!とか、さっきといっていること違うじゃん。とかこういうことになってしまい、相手にとって見ればあまり良い印象はうけない。
前者も後者も両方とも適度なバランスで必要。そして、何よりも大切なのは誠実さだと思う。世の中には守るべき審議上の義務というのが必然的に存在する。それが守れていれば、ある程度はトラブルは起こらないのだろうか?
最後はよく分からなくなってしまいました。結論は、世の中には色々な人がいるからそれぞれの人に足らないところがあるよな〜と言うことを言いたかったのですが・・・支離滅裂な文章ですいません。<m(__)m>
巡る思い
2002年12月19日最近いろいろと考えさせられることが多い。なんとなく今までも考えさせられることが多かったのだが、最近その思いをすることが多くなった。
今週だけでも結構考えさせられる。水曜日に行われたニッシーの所属している学科の教官と学生の懇親会。自分も司会をやる立場だったが思っていることに対して積極的に意見を言った。ほかの人も色々と意見を出した。中には過激な意見もあったり、個人VS個人になってしまったりと、いささかよろしくない部分もあったが全体的にはやってよかったと思った。
そのときだ。なんか自分の頭の中で、色々と今日のことについて考えた。何を考えていたか、何を考えたかは文章では上手く表せないが、「これから学科をどうするべきだろう?」みたいな考えが頭の中をよぎった。
本日、映画を見に行った。そこでもまた考えさせられた。映画の内容というよりもむしろ自分のこと。最近は月に1回くらいの小ペースだが、何か面白い映画の情報が入ると見に行くニッシー。今までは映画にはあまり興味がなかったのだが、最近少し好きになってきた。映画には考えさせられることが多い。そういう映画しか見ていないのかもしれないけど、なんというのかな?自分の心を鍬で耕されているような・・・自分はどうなのだろう?今まで何をしてきたのだろう?と、映画終了後ふと、物思いにふける自分がいる。外の景色を見ながら、コーヒーを飲みながら。
ニッシーの心の中の思い出。昔はいい思い出だった。中学生くらいまでは、はっきり言って悪い思い出と言うよりはいい思い出のほうがより多くニッシーの中には残っている。しかし、高校時代からだろうか?ニッシーの心の中が少しずつ変化しはじめた。だんだんと後悔の思いがなんとなく強くなってきた。もちろんその中にもいい思い出もあるのは事実。すべてがすべて後悔もしくは悪い思い出ではない。しかし、後悔のほうがまず先にニッシーの心の中に出てくる。
あの時ああしていたい、あの時ああしていれば、そんな思いが自分の頭の中を駆け巡る。今でもふとある時に何年か前の後悔の思い出、苦い思い出が頭の中に出てくることがある。そのときの状況や風景、人数構成などといった詳細な場面も思い出すときもしばしばだ。
大学生になってもその状況は変わらない。ただ、大学1・2年のころはニッシートロイ人間になってしまったので、いくらかそういうのは少なくなった。
しかし、ここ最近また後悔の思いや、あのときの情景が頭に浮かぶことがある。今日も東京に行った時なぜか巣鴨に行きたくなった。今日の日とは全然関係ないのに。巣鴨はただニッシーが夏休みインターンシップに行ったときに、泊まったウイークリーマンションがあったところ。本当にそれだけだ。でも、あの時は途中で自分が嫌になって、会社に出勤するのが億劫になっていた。それだけにあのウイークリーマンションから巣鴨駅までの光景は鮮明に頭の中に残っている。そこからまた、頭の中で色々な思いが巡ることになった。
自由人。自由だから、何でもできる。基本的には自分1人。コンサート行くのにも、映画を見に行くにも、スポーツ観戦もみんな1人で行っている。それだけに、そこで見たもの、感じたこと、経験したことがめぐりにめぐる。
後悔の思いになることもしばしば。考えさせられることもしばしば。色々と模索をしている自分がいる。これからもっとこういうことが増えていくんだろうな?その中で自分にとって一番いいものを見つけること。かなり難しい。でも、進むしかない。
今週だけでも結構考えさせられる。水曜日に行われたニッシーの所属している学科の教官と学生の懇親会。自分も司会をやる立場だったが思っていることに対して積極的に意見を言った。ほかの人も色々と意見を出した。中には過激な意見もあったり、個人VS個人になってしまったりと、いささかよろしくない部分もあったが全体的にはやってよかったと思った。
そのときだ。なんか自分の頭の中で、色々と今日のことについて考えた。何を考えていたか、何を考えたかは文章では上手く表せないが、「これから学科をどうするべきだろう?」みたいな考えが頭の中をよぎった。
本日、映画を見に行った。そこでもまた考えさせられた。映画の内容というよりもむしろ自分のこと。最近は月に1回くらいの小ペースだが、何か面白い映画の情報が入ると見に行くニッシー。今までは映画にはあまり興味がなかったのだが、最近少し好きになってきた。映画には考えさせられることが多い。そういう映画しか見ていないのかもしれないけど、なんというのかな?自分の心を鍬で耕されているような・・・自分はどうなのだろう?今まで何をしてきたのだろう?と、映画終了後ふと、物思いにふける自分がいる。外の景色を見ながら、コーヒーを飲みながら。
ニッシーの心の中の思い出。昔はいい思い出だった。中学生くらいまでは、はっきり言って悪い思い出と言うよりはいい思い出のほうがより多くニッシーの中には残っている。しかし、高校時代からだろうか?ニッシーの心の中が少しずつ変化しはじめた。だんだんと後悔の思いがなんとなく強くなってきた。もちろんその中にもいい思い出もあるのは事実。すべてがすべて後悔もしくは悪い思い出ではない。しかし、後悔のほうがまず先にニッシーの心の中に出てくる。
あの時ああしていたい、あの時ああしていれば、そんな思いが自分の頭の中を駆け巡る。今でもふとある時に何年か前の後悔の思い出、苦い思い出が頭の中に出てくることがある。そのときの状況や風景、人数構成などといった詳細な場面も思い出すときもしばしばだ。
大学生になってもその状況は変わらない。ただ、大学1・2年のころはニッシートロイ人間になってしまったので、いくらかそういうのは少なくなった。
しかし、ここ最近また後悔の思いや、あのときの情景が頭に浮かぶことがある。今日も東京に行った時なぜか巣鴨に行きたくなった。今日の日とは全然関係ないのに。巣鴨はただニッシーが夏休みインターンシップに行ったときに、泊まったウイークリーマンションがあったところ。本当にそれだけだ。でも、あの時は途中で自分が嫌になって、会社に出勤するのが億劫になっていた。それだけにあのウイークリーマンションから巣鴨駅までの光景は鮮明に頭の中に残っている。そこからまた、頭の中で色々な思いが巡ることになった。
自由人。自由だから、何でもできる。基本的には自分1人。コンサート行くのにも、映画を見に行くにも、スポーツ観戦もみんな1人で行っている。それだけに、そこで見たもの、感じたこと、経験したことがめぐりにめぐる。
後悔の思いになることもしばしば。考えさせられることもしばしば。色々と模索をしている自分がいる。これからもっとこういうことが増えていくんだろうな?その中で自分にとって一番いいものを見つけること。かなり難しい。でも、進むしかない。
今日の日記
2002年12月12日人には色々な性格の人がいる。『明るい人、普通の人、暗い人(あまりいい表現ではないか・・・)、酒飲み、遊び人、まじめ』そのような人たちが混在しているこの世界。
そのような人たちが集まっているのが、会社、学校、サークル、委員会その他人の集まりである。その中で、温度差というのがその中の人と人とで存在するのだ。それは、何か団体というものに所属している限り必ず生じるものだと思う。だからといって、その人に自分と同じものを持てといっても結局はその人の気持ちが変わらなければだめなこと。だから、自分は最近そのようなものは求めないようにしている。平たく言ってしまえば、「その人はその人、自分は自分」それでもいいんじゃないかと。
自分の思うように行かないことも往々にしてあるだろう。でも、それは最終的にはその人の心の変わり次第。それを他人にまで強制するのはおかしいと自分では思っている。それは、自己満足というか・・・強情というか・・・自分の思い通りに行かないと気がすまない、もっと悪くいってしまえば自分勝手。そういう感じですかね。
逆に仮に強制的に自分の思うような道に進ませたとしよう。しかし、そのように進む道はどこかしらに穴のあいたところがある。完全なものではない。そのようにして人に作られた『道』に進むのは本意ではないと思う。『道』は人によって作られるものではない。自分で作るものだ。
つまり、自分の思っていることを強要するのではなく、最終的にはそういう方向でもいいのかもしれないけど、それに進むヒント、アドバイスを与えること。それでいいのではないか。最近思ったことだ。そして、いきなり大きな目標を掲げない。まずは、出来るような小さな目標から始まり、それが出来たらだんだんとレベルを高くしていけば最終的には本来の目標よりもより完全な高いものになって現れるときもある。
ヒントを与えるだけ。後はその人の心の変わり次第。私はそれを強制もしないし、無理に押し付けるようなこともしない。むしろ出来ないと思う。時と場合によるが。その人はその人、自分は自分なのだから。
というような考え方だとなかなか賛同者が集まってくれないので悲しい気もしないではないのですが・・・(苦笑)でも、基本的にはそういうものだと思います。だから、私の場合は最近は1人で行動していることが多いし。
教職の授業を受けて感じたこと。
そのような人たちが集まっているのが、会社、学校、サークル、委員会その他人の集まりである。その中で、温度差というのがその中の人と人とで存在するのだ。それは、何か団体というものに所属している限り必ず生じるものだと思う。だからといって、その人に自分と同じものを持てといっても結局はその人の気持ちが変わらなければだめなこと。だから、自分は最近そのようなものは求めないようにしている。平たく言ってしまえば、「その人はその人、自分は自分」それでもいいんじゃないかと。
自分の思うように行かないことも往々にしてあるだろう。でも、それは最終的にはその人の心の変わり次第。それを他人にまで強制するのはおかしいと自分では思っている。それは、自己満足というか・・・強情というか・・・自分の思い通りに行かないと気がすまない、もっと悪くいってしまえば自分勝手。そういう感じですかね。
逆に仮に強制的に自分の思うような道に進ませたとしよう。しかし、そのように進む道はどこかしらに穴のあいたところがある。完全なものではない。そのようにして人に作られた『道』に進むのは本意ではないと思う。『道』は人によって作られるものではない。自分で作るものだ。
つまり、自分の思っていることを強要するのではなく、最終的にはそういう方向でもいいのかもしれないけど、それに進むヒント、アドバイスを与えること。それでいいのではないか。最近思ったことだ。そして、いきなり大きな目標を掲げない。まずは、出来るような小さな目標から始まり、それが出来たらだんだんとレベルを高くしていけば最終的には本来の目標よりもより完全な高いものになって現れるときもある。
ヒントを与えるだけ。後はその人の心の変わり次第。私はそれを強制もしないし、無理に押し付けるようなこともしない。むしろ出来ないと思う。時と場合によるが。その人はその人、自分は自分なのだから。
というような考え方だとなかなか賛同者が集まってくれないので悲しい気もしないではないのですが・・・(苦笑)でも、基本的にはそういうものだと思います。だから、私の場合は最近は1人で行動していることが多いし。
教職の授業を受けて感じたこと。
正直
2002年10月23日同じ学科の女の子に「ニッシー君、ちょっとお話があるんだけど・・・」って言われました。その子は、昔ニッシーが好きだった人。今は普通の友達なんだけど、ニッシーその人に告白したこともあります。そのときはお見事振られてしまいました。その後、彼女は別の彼氏を作っていました。それからニッシーはあまり彼女とは話をしていませんでした。
そんな彼女に呼び止められたのです。なんだろう?と思い、話を聞いてみると。「最近、ニッシーあまり私に話してくれないジャン。だから〜、どうしたのかな?と思って。悪かったな〜と思って。」ニッシーは別にそうは思っていなかったのでちょっと驚き。結局彼女にはこう答えました。
「ごめんね、全然そういうつもりはなかったんだけど自分に正直になれなくて・・・」すると彼女は、「いつもどおりで良いからね。話して。」って言ってくれました。彼女にはもうすでに彼氏がいるわけなので、彼女とニッシーは今では普通の友達です。でも、知らず知らずの間にニッシーが彼女との距離をとっていたんだな〜と思って、自分の心に正直になれない自分にはがゆい思いがしました。
自分に正直になれない。人間と言うのは何とデリケートな生き物なんだろう?思わずニッシーが考えたことです。結局はニッシーは自分の中で知らず知らずの間にニッシーではなくなっていったわけです。自分に正直にはなりたいとは常日頃から思っています。ただ、何というか・・・上手く言えないんですけど、何かだめだったというか拒絶されたというか、負の方向に色々と考えてしまってそれがどんどんどんどんと風船のように膨らんでいって・・・最終的にはニッシー自身も知らず知らずの間に変わった方向に進んでいる。ニッシーも少しは気づいているのです。でも、あのときの彼女と今の彼女はニッシーの見方が違う。見方が違うと態度も違う。こういうのってやっぱだめですよね。態度が違うからあのときのニッシーが出せない。別の角度からのニッシーになってしまった。上手く文章で表すことはできませんが心情を表すとこんなところでしょうか。
一度曲がってしまったもの。ニッシーの中ではそれを戻すことっていうのは非常に難しいです。自分はどちらかというと一途な人間なので、一度こうと決めてしまうとそれを変えようとするのはよほど何かニッシーの何かを変える刺激がないと厳しいのではないかな?そう思いました。
自分に正直になりたい。でも、正直になれない自分の中の何かがある。その歯がゆささで、今もちょっと悩んでいます。ここまでくると何というかな?自分の中での『意地』みたいなものですね。自分に正直になりたいと思いつつも、やっぱり自分の中での『意地』があって、どうも正直になれない。そして、それが結局態度になってでてしまう。譲歩ができないのです。自分の譲れない部分。これがある限り、自分に正直になれないんだろうな〜?
だから、自分は自分の道を行くという選択肢をとってしまった。10月16日の日記はそういう意味も入っていたのかな。と今ふと思ってしまった。自分に正直になりたい自分と、意地をはりあっている自分、譲歩できない自分。その中で自分なりの答えを出そうとはしています。しかし、なかなか答えは出ません。はぁ〜、自分に正直になりたいです。
そんな彼女に呼び止められたのです。なんだろう?と思い、話を聞いてみると。「最近、ニッシーあまり私に話してくれないジャン。だから〜、どうしたのかな?と思って。悪かったな〜と思って。」ニッシーは別にそうは思っていなかったのでちょっと驚き。結局彼女にはこう答えました。
「ごめんね、全然そういうつもりはなかったんだけど自分に正直になれなくて・・・」すると彼女は、「いつもどおりで良いからね。話して。」って言ってくれました。彼女にはもうすでに彼氏がいるわけなので、彼女とニッシーは今では普通の友達です。でも、知らず知らずの間にニッシーが彼女との距離をとっていたんだな〜と思って、自分の心に正直になれない自分にはがゆい思いがしました。
自分に正直になれない。人間と言うのは何とデリケートな生き物なんだろう?思わずニッシーが考えたことです。結局はニッシーは自分の中で知らず知らずの間にニッシーではなくなっていったわけです。自分に正直にはなりたいとは常日頃から思っています。ただ、何というか・・・上手く言えないんですけど、何かだめだったというか拒絶されたというか、負の方向に色々と考えてしまってそれがどんどんどんどんと風船のように膨らんでいって・・・最終的にはニッシー自身も知らず知らずの間に変わった方向に進んでいる。ニッシーも少しは気づいているのです。でも、あのときの彼女と今の彼女はニッシーの見方が違う。見方が違うと態度も違う。こういうのってやっぱだめですよね。態度が違うからあのときのニッシーが出せない。別の角度からのニッシーになってしまった。上手く文章で表すことはできませんが心情を表すとこんなところでしょうか。
一度曲がってしまったもの。ニッシーの中ではそれを戻すことっていうのは非常に難しいです。自分はどちらかというと一途な人間なので、一度こうと決めてしまうとそれを変えようとするのはよほど何かニッシーの何かを変える刺激がないと厳しいのではないかな?そう思いました。
自分に正直になりたい。でも、正直になれない自分の中の何かがある。その歯がゆささで、今もちょっと悩んでいます。ここまでくると何というかな?自分の中での『意地』みたいなものですね。自分に正直になりたいと思いつつも、やっぱり自分の中での『意地』があって、どうも正直になれない。そして、それが結局態度になってでてしまう。譲歩ができないのです。自分の譲れない部分。これがある限り、自分に正直になれないんだろうな〜?
だから、自分は自分の道を行くという選択肢をとってしまった。10月16日の日記はそういう意味も入っていたのかな。と今ふと思ってしまった。自分に正直になりたい自分と、意地をはりあっている自分、譲歩できない自分。その中で自分なりの答えを出そうとはしています。しかし、なかなか答えは出ません。はぁ〜、自分に正直になりたいです。
あのときから
2002年10月16日最近行っていない。なんだろう?別に行く理由もないし。それよりも自分はやりたいことが見つかったんだ。
最近といったら毎日バイトと趣味に精を出す毎日。塾講師2日、寿司屋2日、家庭教師1日、そして、土日は野球の審判。こんな生活。後、授業も忙しい。いろいろと勉強がしたいことがある。大学院にも行きたい。でも、就職したいというのもどこかにあり、考えているところです。
昔はこんなこと考えられただろうか?きっとそうは思っていなかったはず。どこからだろう?何か最近こんな気持ちなのです。やっと、自分にとって没頭できる何かが見つかってきた気がする。
これは、理屈でもなんでもない。ただ、自分がそう思ったからこの道を進んでいる。そう、自分は自分の道を行く。そうあの日から心に決めたのだ。皆が皆なら自分は自分。今の心境を言葉に現すと『挑戦』そんな感じだ。
文章の意味は読者が勝手に読み取ってください。もっと詳しく聞きたいという方は、個別に問い合わせください。
これは理屈ではないのです。
最近といったら毎日バイトと趣味に精を出す毎日。塾講師2日、寿司屋2日、家庭教師1日、そして、土日は野球の審判。こんな生活。後、授業も忙しい。いろいろと勉強がしたいことがある。大学院にも行きたい。でも、就職したいというのもどこかにあり、考えているところです。
昔はこんなこと考えられただろうか?きっとそうは思っていなかったはず。どこからだろう?何か最近こんな気持ちなのです。やっと、自分にとって没頭できる何かが見つかってきた気がする。
これは、理屈でもなんでもない。ただ、自分がそう思ったからこの道を進んでいる。そう、自分は自分の道を行く。そうあの日から心に決めたのだ。皆が皆なら自分は自分。今の心境を言葉に現すと『挑戦』そんな感じだ。
文章の意味は読者が勝手に読み取ってください。もっと詳しく聞きたいという方は、個別に問い合わせください。
これは理屈ではないのです。
これからの時代
2002年9月18日約1週間前、日本中に衝撃のニュースが駆け巡った。『宇多田ヒカル結婚!』日本中このニュースが全チャンネルで流れた。もちろんニッシーもちょっと興味があったのでテレビを見てみた。宇多田ヒカルはニッシーより年下。自分より年下なのに・・・とちょっとビックリしつつも、やっぱり人の幸せは応援したくなる人なので、ささやかなエールを心の中でおくった。
さて、ニッシーが興味を持ったのは宇多田ヒカルの結婚相手だ。お相手は、宇多田ヒカルのフォトグラファーらしいが、何と中学生時代に日本の教育システムに疑問をもってアメリカに旅だったという。自分のやるべきことをもう中学生の時に見つけ、そして夢のために渡米。
かという宇多田ヒカルも、現在コロンビア大学に通っている大学生。こちらもアメリカの学校で歌手活動と両立させながら勉学もきちんといそしんでいる。アメリカは日本と違い、休学したりすることも結構自由な風潮があるので彼女にとっては歌手活動と勉学を両立させるのもそんなに大変なことではないと思う。
どちらも似たような人生をたどってきている。そして、これは今の日本を抽出している。そんな気がニッシーはするのだ。
今や、終身雇用の時代は崩れてきて能力のあるものがどんどんあがっていくという風潮に日本もなりつつある。一度会社に入ってしまえば、もう安心。そんな時代は終わったのかもしれない。これからの時代、自分が何をすべきか?自分にとって一番向いていることはなにか?やりたいことはなにか?このようなことをしっかりと見極めて、自分の努力しだいでどんどん伸びて行く。そういう時代が来つつある。今回の、宇多田ヒカルの結婚はこれからの日本の様子を現している。結婚の報道の裏でそのようなことを感じたのである。
それを考えるとニッシーははたしてこの大学に来てよかったのか?本当にこれでニッシー就職活動やっていけるのか?自分自信に問いを投げかけたくなってくる。大学では、専門知識は身につくけど即戦力になるようなものは身につかない。大学は教養を学ぶところ。専門的なことは専門学校。ニッシーの大学3年間をやってきて感じたことである。
自分はまだまだ足りないものがたくさんある。これからの将来のために自分はどうすれば良いのか?今日も自問自答の日々が続く。
さて、ニッシーが興味を持ったのは宇多田ヒカルの結婚相手だ。お相手は、宇多田ヒカルのフォトグラファーらしいが、何と中学生時代に日本の教育システムに疑問をもってアメリカに旅だったという。自分のやるべきことをもう中学生の時に見つけ、そして夢のために渡米。
かという宇多田ヒカルも、現在コロンビア大学に通っている大学生。こちらもアメリカの学校で歌手活動と両立させながら勉学もきちんといそしんでいる。アメリカは日本と違い、休学したりすることも結構自由な風潮があるので彼女にとっては歌手活動と勉学を両立させるのもそんなに大変なことではないと思う。
どちらも似たような人生をたどってきている。そして、これは今の日本を抽出している。そんな気がニッシーはするのだ。
今や、終身雇用の時代は崩れてきて能力のあるものがどんどんあがっていくという風潮に日本もなりつつある。一度会社に入ってしまえば、もう安心。そんな時代は終わったのかもしれない。これからの時代、自分が何をすべきか?自分にとって一番向いていることはなにか?やりたいことはなにか?このようなことをしっかりと見極めて、自分の努力しだいでどんどん伸びて行く。そういう時代が来つつある。今回の、宇多田ヒカルの結婚はこれからの日本の様子を現している。結婚の報道の裏でそのようなことを感じたのである。
それを考えるとニッシーははたしてこの大学に来てよかったのか?本当にこれでニッシー就職活動やっていけるのか?自分自信に問いを投げかけたくなってくる。大学では、専門知識は身につくけど即戦力になるようなものは身につかない。大学は教養を学ぶところ。専門的なことは専門学校。ニッシーの大学3年間をやってきて感じたことである。
自分はまだまだ足りないものがたくさんある。これからの将来のために自分はどうすれば良いのか?今日も自問自答の日々が続く。