物事に気付くこと

2004年2月23日
パチフィストイの集まりのとき、自衛隊のイラク派遣云々の話をしていた。そのとき、ニッシーが意見の中である新聞記事を引用して話をした。「前に新聞で読んだんですけど、ある女性からの投書で私の彼は自衛官です。今まで戦争とかには無縁かと思っていたのですが、自衛隊のイラク派遣が決定し、私の彼にも出動命令が出て、そこから戦争に関してすごく関心を持つようになった。彼女にとっては、身内の人が今回のようなケースになるということで、それに気付いて何か活動をしている・・・・・」みたいなことを言ったら、それを聞いていて先生が「それじゃ〜気付くのが遅いんですよね。」と返された。

別の話をしよう。現在、文部科学省で小学生から英語教育を導入しようと言う動きが広まりつつあると言うのが新聞記事に載っていた。個人的にはこの動きには反対である。詳しくは、また新たにタイトルを設けて書こうと思っているが、英語以外にも言語と言うのはいろいろなものがある。確かに、世界でやっていくには英語が話せるにこしたことはない。しかし、他の言語の重要性などを知らせずに闇雲に、英語!英語!英語!とするのは私は反対なのである。

私は、正直英語の重要性について今まではさほど感じていなかった。最近になって、学会とかで発表するときは英語だし、ベトナムに去年行ったときにベトナム語を公用語にする国でさえ、ホテルの従業員などは英語を話していた。そういう意味で、やはり喋れたほうがいいなと英語の重要性を再認識し現在勉強しているところである。ただし、言語の重要性や多様性をわからせないまま、ただ闇雲に英語が必要だ!と言って教育することは個人的に反対と言うことである。英語教育や英語そのものにはそんなに反対していない。

このことを、先日実家に戻ったときに英語教師である母に話した。そしたら母は、「でも、そのときじゃ遅いんだよね。」とあっけらかんに返されてしまった。

先ほど私が挙げた2つの例はいずれも『気付くのが遅い』と言うのが挙げられている。確かに、普通の人比べたらそのことの重要性・必要性に感じたときは若干遅いと言われても仕方ないことだろう。しかし、それじゃ〜遅いから何かデメリットでもあるのだろうか。今回はそれを提起したい。

自衛隊にしろ英語教育にしろ自分が気付いたとき、それは確かに遅かった。遅いから他の人に比べたらそれを行動に移すのが遅いのだから、そういう意味では差は出るだろう。しかし、私はこの『気付く』と言うのを大いに評価したいと思う。世の中にはこれらのことにも気付かないまま生涯を終えてしまう人も少なくない。それらの人に比べたら、まずそれらのもつものに気付いたと言うことだけでも、一歩前進だしそこから物事を進めればいいと思う。そこからだって大いに成長できると思うし、可能性があると思う。

気付くと言うことも色々とある。誰かに教えられて悟られて気付くこと、自分で考えて熟考して気付くこと、あるときふと気付くこと、行動の中で気付くこと。気付くパターンは一通りではない。時には人に助けられたり、自分でふと気付くことも往々にしてあるものだ。

この気付くというこのときを無駄にしてはいけないと思う。だから、決して気付くのが遅いからといって○○だと言うのは決してないと思う。大切なのは、それをどのように活かし今後どうして行くか。そこから人間はいくらでも変わっていけるのだから。だから、遅いってことはないと思う。気付いただけでも一歩前進、プラスに歩いていかないと。

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